Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0418

 豊かな人生を送りたいと思う。ここでいう豊かさというのは、豊富な教養とか丁寧な食生活とか適度な運動とかそういったものの集積のことではなく、退屈な時間を持て余してノートの片隅に落書きをはじめるような、そういう隙間に満ちた生活のことである。にゃおーん。

 自分と同じ問いを同じ深刻さで抱えている人間とだけ話がしたいと感じる。そうでない人と話しても曖昧に納得されるか怪訝な顔をされるかのどちらかである。とくに曖昧に納得される虚しさといったらない。自分にとって必然だったそのまわり道は、彼らにとっては本当にまわり道でしかないのだ。

0308

 ここ半年くらいずっと目覚めていたような気がしています。あまりに規則正しく毎日が過ぎてゆくので、意識がその継ぎ目を忘れてしまったみたい。起きたいときに起き、眠りたいときに眠る。人間らしく生きるということはつまりそういうことだと思うのですが、諸々の都合がそれを許してくれません。許してくれない?そんなの知ったことか!ってほんとは言いたいのだけれど。

 「昨日Sちゃんと意識の歯車を交換しました。小さい金色の歯車で、その中に〈私〉が入ってるんだそうです。記憶とか知性とかは脳が蓄えているんだけど、『今ここにある私』という実感を生み出すのはその意識の歯車なんですって。だからこれを書いているわたしは昨日まではSちゃんだったのです。記憶にはないけれど。でも不思議ですね。記憶の中にいる昨日以前のわたしも自分が自分であるという実感を抱いていたのに、それはかつてSちゃんだった今のわたしからすればただの記録に過ぎません。一方で、肉体としてのわたしNには、昨日も今日もずっとNであったという自覚があります。一昨日のNと昨日のNが同じNであったのとまったく同じ意味で。いったいわたしとSちゃんは何を交換したのでしょうね?」

0226

 僕は「ほんとうの」よりもむしろ「結局のところ」が知りたいのだな、と思った。

 引っ越しをしました。長いあいだ貼っていた絆創膏を引剥したときみたいな痛みがあります。この痛みもまた時間とともに癒えてゆくのでしょう。そして癒えてしまった傷跡を見て一抹の虚しさを感じるのです。過去はスーパーボールのように跳ねながらやがて動かなくなってゆきます。

 平均が先にあってその周りに値が集まっているのではないように、目標に向けて放たれた銃弾は、「真の軌跡」の周りに分布するのではなく、そのように分布する銃弾たちが総体として目標を狙うのだ。確率分布を所与のものみたいに扱っていると忘れてしまいがちだけれど、「理想的なシステムの不完全な実現値」があるのではなく、そういうばらつきのある状態たちの中に理想的なシステムが浮かび上がって見えるだけなのだ。この順番を逆にしてはいけない。と思った。

 引っ越しに託つけてHHKBを買いました。こいつぁすげぇや……

0206

 自分の関心を大事にするのと同じくらい、自分の無関心を大事にしなくてはならない。いろいろなことに興味を抱き、退屈を趣味で埋めてしまうような人間になってはいけない。つまり自分の心に嘘をついてはいけない。

 物事を相対化するのは、実はとてもむつかしい。選択肢を並置して上から眺めただけでは相対化したことにならない。そうした選択肢を可能としている背景それ自体を括弧に入れる必要があり、そのためにはある種の「修行」が必要になる。自分が普段使いしている言葉たちから距離を置くための修行が。

0204

 「罪人である自分」に対する憐憫ほど醜悪なものはない。気をつけること。

 この肉体は自然法則に縛られた物質の振る舞いに過ぎないというのに、どうしてそれが〈私〉であることが可能なのか。〈痛み〉や〈赤さ〉を擁しうるのか。15年もの間、僕はこの問いに駆動されて生きてきた。だが現在の僕にとってそれはもはや正当な問いではない。厳然たる法則に支配された冷徹で客観的な宇宙という観念を、すでに信じることができなくなっているから。その代わりにいま僕が信じているお話はこうだ。この世界に書き記されたとある物語においては、人間(あるいは知性)とそれに観測される客観的宇宙という構図は確かに意味をもつ。だがそれはあくまで一つの物語の中での話である。その物語は、観測者と被観測者を、観測という言葉の意味も含めて規定しており、それゆえに登場人物であるわれわれ人間は、ある特権的立場、つまり主観に立って客観的宇宙を観測しているように思っているのだが、それは物語の筋書き的にそうなっているだけなのであって、この物語を支えている真の自然を観測できているわけではない。そもそもそちらの自然の上では「観測」など考えることはできないのだ。そこは物語の外側なのだから。僕がこのようなお話を信じる根拠はいくつかあり、もっとも説得力があるのは、われわれの考える秩序はいくら硬くツルツルしたもの(世界の側に属するもの)に思えようとそれが破綻するポイントを示すことが出来るという経験的事実だが、僕の信仰を敷衍するならばこれもまた物語の筋書きに過ぎず、さしたる意味はない(そしてこの自己完結的な性質こそが、僕がこのお話を気に入っている最大の理由でもある)。そういうわけで、僕に残されている問いは「なぜこのお話は書かれたのか」をおいて他になく、それはもはや答えを期待できるようなものではない。物語の外には問いも答えもないのであるから。

0203

 今朝、「朝っぽい曲をかけて」となんとなしにGoogle Homeに頼むと、ジムノペディ第一番が流れはじめた。たしかに朝っぽいが、しかしこれはすべてが過去になったあとの朝という雰囲気である。闘いに背を向けて得た平穏、戦線復帰への助走。起承転結でいうと転にあたる朝。

 ウナギという種を滅ぼすことは、ある一匹のウナギを殺すことよりも重罪なのだろうか?