Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0816

 論理的推論は、紙の上に書かれたいくつかの線分を、あるルールに則って延長していくことに似ている。延長は証明のステップであり、線の交わりは帰結である。論理的プラトン主義者は言うだろう。はじめの線分と延長のルールが与えられれば、それ以降に描かれることになるであろう線分とその交わりは、その時点で一挙に決定されていると。その主張に対して僕は異を唱えたい。いくら綺麗な線を描こうとしたところで、現実的には線は歪みうるし、さらに言えば、「線分を延長するルール」を完全に記述し尽くすこともできない。生じうるすべての紙面の状態について延長法を列挙することはできないからだ。したがってある紙面の状態における延長ルールの適用がどのようなものとなるかもまた、「線分を延長するルール」という線分の延長の結末にほかならない。つまりこういうことである。一般に、あらゆる局面におけるルールの適用結果を予め列挙しておくことはできない。したがって、ある局面におけるルールの適用は、なんらかのルールによって生成されねばならない。だがそのルール生成のルールもまた同じ問題に突き当たるのである。かくして、紙面の初期状態と延長のルールは延長の結末を決定しないことが明らかになる(もちろん延長の精度を高めることで、ある結末を強く示唆することは可能である)。しかしそれでもなお人は線分を延長するのであって、そこにあるのは必然の発見というよりはむしろ決断と発明である。とまあこれが僕の(あるいはウィトゲンシュタインの)演繹に対する所感である。対してプラトン主義は言うかもしれない。たしかに現実的には、線分が歪みその帰結が予測不可能になるかもしれないが、論理においては線分は「理想的」であり、延長の結果は一意に定まるのだと。そのように主張するのは自由だが、しかしわざわざそうする必要性があるとも僕には思えないのである。

 久しぶりに丁寧に小説を読んでいる。言葉とイメージの間を時間をかけて往復するのが楽しい。かつての自分はあんまり焦っていたものだから、言葉は言葉で、イメージはイメージで完結させるのが習い性になってしまっていた。と今になって思う。そろそろ統合する頃合いである。

 ”わかっている”人にとってわかっていることの基準は自分と同じように振る舞うことなので、そういう人たちには批判がほとんど機能しなくなる。そういうふうにはなりたくない。

0710

 先日断食をして元気になったことをきっかけに、もしかして自分はもっと食事量を落としたほうが調子が出るのではないかと思いだし、しばらくあまり食べない生活を続けていたのだが、普通に調子を崩した。ので食事量はもとに戻した。食べないと人は生きられないのだということを身を持って知ることができたので良かったと思う。
 自分の体調をモニタして、好調を引き出すための条件を調べることに、最近ちょっとハマっている。行動とその後の調子の関係に注意が向くようになり、食事の好みが若干変わり、身体を動かすのが好きになった。根が面倒くさがりなのであまり本格的な運動をするわけではないのだけれど、一日に一度全身を思い切り伸ばして、というか強張らせて、お前はちゃんとそこに在るのだと筋肉に教えてやるだけでだいぶ疲労感が減る。このような行動と体調の間の因果的関係を統計的に抽出できたら便利だと思うのだけど、どうやってデータを取ればよいかわからないので放っている。行動そのものを認識させるのは大変なので、ある時点での身体の状態と一定時間後の主観的調子の関係をモデル化し、調子がよくなる兆候が現れた時点でアラートを鳴らすのが良いと思う。そうすれば、アラートが鳴った直前にやっていた行動が良い影響をもたらすことを知ることができる。誰かやってみませんか?


 ここ数日ちまちまと自動微分フレームワークを書いている。目標は計算と計算グラフの構築を分離することだ。実際の計算はせずに、まず計算順序だけを表現するグラフを作成し、結果が必要になった段階で、それを得るのに必要な部分の計算を行う。また Chainer のようなフレームワークが計算グラフを逆向きにたどることで BackProp を実現しているのに対して、僕のフレームワークは backward グラフを新たに別に構築する。意図としては、自動微分の機能を計算グラフ自体から独立させ、単に新たなグラフを作る関数として実装することにより、抽象性を上げることと、自動微分にあたってどの値を保持するかを必要な勾配から自動的に決定できるようにすることなどがある。パラメタからそのパラメタの勾配へ円を描くように計算グラフが繋がることから、mandala と名付けることにした。現状基本的な演算子の実装は終わっていて、Linear や Convolution の実装に取り掛かっている。GPU での計算には cupy を使うつもりだが、Convolution など cuDNN を利用すべき場所をどうすればいいのか必要な知識がないので悩んでいる。情報科学科を出ておくべきだった気がする。大学で哲学をやったこと自体は良い選択だったと自分では思っているけれど。
 下図は計算グラフを可視化してみたもの。予想以上に曼荼羅で非常に満足している。大層なことを書いたけど、ちゃんと完成する可能性はそんなに高くない。ResNet くらいは動かそうと思ってるんだけど。

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0708

 真理は社会性の産物であり、懐疑は孤独の産物である。人は独りで約束を交わすことはできない。


 三角関数などからサンプリングした点をモデルで補完して、ほらパラメタが多いとオーバーフィットしましたね、みたいなことを言う解説がたまにあるけれど、あれは嘘っぱちで、ただ人間から見るとその点は三角関数に見えるという話に過ぎない。人間は、人間(あるいは自然)に近い仕方で点を内挿するモデルを評価するが、そのモデルはべつに正しいわけではない。醜いアヒルの子の定理。


 期待値と分散のトレードという意味では、保険と宝くじは同じである。繰り返しを本質とするこの科学的宇宙においては軍資金の多いほうが有利だ。なんだかなーと思う。

 人類をもっと暇にする仕事に従事したいと思う。しかし暇があるならそれを「有意義に」利用する集団のほうが戦争一般に有利であり、なので僕がいくら頑張ろうとちょっと生産性が向上しておしまいである。この構造が自然に解決されるとは考えづらい。根底にあるのは人間がほとんど本能的に持つ競争心であり、他者に遅れを取ることに対する生理的な恐怖である。それらを煽る燃料は速度と範囲を増し続ける通信網によって延々と供給され続けるだろう。状況は悪い。なんとかなってほしい。


 見通せないことはあってもよいが、その理由がたんなる光の不足以上のものであってはならない、という気持ちがある。すべてが透明でありますように。

0608

 いま自分は何も考えることが出来ていない、という事実にふと気づく瞬間があり、そういう瞬間が最近増えている。よいことだと思う。頭の中でイメージをこねくり回したり言葉を連ねたりしているとなにかを考えている気になってしまうのだが、そうした実感と有用な思考ができているかとはまったく別のことだ。現実との摩擦を欠いた思考、現象に生えた取っ掛かりをうまく掴むことのできていない思考は、僕らを間違った地点へと連れて行ってしまう。意味のある思考をするためには、なにはともあれ現実に取っ掛かりを見出すことだ。世界に対して爪を立てる感覚。はじめはつるつるして滑ってしまうのだけれど、だんだん引っ掛けるべき場所がわかってくる。

 世界には本来的にはエネルギーの濃淡があるに過ぎないが、それを分節化しゲシュタルトを編み上げることによって現実を操作することが可能になる。網膜に映る色の集合をすべて等価に見ているうちは何も出来ないが、そこに林檎を見出すことによってそれを手にとって食べることができる。むしろ身体の要求を満たす形で現実を構造化しようとすると、そこに林檎というゲシュタルトが要請されることになるといったほうがよいかもわからない。そもそも身体というのが一つのゲシュタルトであり、そういう意味ではここにはある種の堂々巡りがあるのだが、ともかくそうした分節化の上にわれわれの現実はある。僕が取っ掛かりと呼んでいるのはこの分節のことである。

 ひとたび取っ掛かりが見えるようになると、現実は格段に単純になる。世界が模様に過ぎなかった頃は、めちゃくちゃに世界を引っ掻き回して報酬の増減を見るしかなかったものが、林檎や手が一つの対象として見えるようになれば、探索せねばならない範囲は大きく狭まる。とりあえず「林檎」を「口」に「持っていって」みるということができるようになるわけだ。

 問題は、どのようにして取っ掛かりを掴むかということである。すでに手のうちにある取っ掛かりの組み合わせでなんとかなる場合には、そのようにすれば良い。言語的(記号的)思考が有用である領域はここだ。しかしそうではない場合、一から新たなゲシュタルトを編み上げねばならない場合にどうすればよいのか、僕にはまだ有効な指針がない。結局のところそのためにはやはり、めちゃくちゃに世界を引っ掻き回してみるほかないのではないかという気もするのだが、もしここにもっと効率的なやり方があるのであれば、僕にとっての宇宙は遥かに住みよい場所になるだろう。そうなる日を夢見ている。

0526

 ここしばらくずっと身体(脳含む)の調子が悪かったのだが、先日ふと思い立って一日断食をしてみたところ面白いほど調子が回復して能力が300%(当社比)くらいになった。栄養が不足したことによって狩猟モードがオンになったか、あるいは胃腸に休息を与えたことで栄養の吸収効率が上がったのかもしれない。月一くらいで何も食べない日を作るのかなり良さそうである。

0518

 自分の意識は、自分が語ることを聞くことではなく、自分が見ているものを見ることの上にあるなあと思った。

 C.S.パースは、数学のすごさはその確実性・無謬性にあるのではなく(実際、人はしばしば演繹を間違える)、たとえ誤謬が発生したとしてもそれをすぐさま自己修正できる点にある、と述べている。ひとたび間違いを指摘されれば、ほとんどすべての数学者はすぐさま指摘を受け入れる。言ってしまえば、それが絶対の真理であるかどうかはさておき、ある一つの方向に向かって収束していくきわめて強い力を有している、ということだろう。問題は、いったいどういう条件を満たせばそういう性質を実現できるのかということである。

 次のようなことを考えたことがある。「1+1=?」という問いに9割の確率で「2」と答える人がたくさん集まって多数決をとれば、その答えはほぼ確実に2にすることができる。またニュートン法凸最適化問題を解くとき、途中で多少の数値計算のミスが混入したとしても、得られる解はほとんど変わらない。なにかこれに似た仕組みが、我々の言語の一歩手前から、演繹を支えているのではないか。多少のばらつきがあったとしても結局はそこに吸い寄せられてしまうような何らかの場が、論理の確実っぽさの後ろにあるのではないか。とするならば問題は、安定した系とカオスな系を分かつものは何なのか、ということになる。

 そもそも「安定」とは何だろう。畢竟それも言葉に過ぎない。〈安定したもの〉がこの世界に存在するわけではない。我々の身体は安定しているだろうか?外見上は恒常性が比較的長期にわたって保たれているように見える。しかしそれを構成する物質は頻繁に入れ替わっており、そういう意味では決して安定的ではない。我々の身体に住むバクテリアから見れば、そこはカオティックな激動の世界であるかもわからない。つまり安定性の観念もまたパースペクティブに依存している。あるいはそういうパースペクティブがあるおかげで我々は「安定」していられる。

 ある日原初の海に自己複製機械が現れた。その時点では「自己」にも「複製」にも明確な意味はなかったけれども。それと外界との境界は曖昧だったし、複製されたそれがオリジナルのそれと同じかどうかを判定する基準もなかった。なにせ「位置」やそれを構成する「物質」はオリジナルと「同じ」ではないのである。

 同一性が先にあったのではなく、何らかの意味での自己複製が同一の意味を定めた。というのがおそらく何らかの意味で正しい。

 父と子と、何らかの意味において。アーメン。

0513

 問いとはなんなのだろうかと考えていた。内省してみると、問いにともなう内的感覚は焦燥に似ている。何をしたらよいかわからない居心地の悪さ。たとえば「問いとはなんだろう」と口にしてみる。そのあとに如何なる言葉を続けるべきか直ちにはわからない。わからないが何かを続けねばならない気がする。そこに生まれた真空地帯みたいなものが、問いの感じを構成している。たぶんこの世界に〈問い〉は存在しないから、この焦燥感を反省し対象化したものが問いなのだろう。探索しモデルを更新せよというシグナル。ここにおいて問いの解決とは、その状況での振る舞い方が決まるということである。「問いとはなんだろう」のあとに続けてみて違和感のない言葉の並びを発見するということである。それは必ずしも適切な振る舞い方が分かるということを意味しない。

 思考によって問題を解決するには、自分の中に世界の精密なモデルを持っていなくてはならない。めちゃくちゃなシミュレーション環境でいくらシミュレートを繰り返したところで、得られる結果はナンセンスである。そしてそのモデルを精密にする作業は当然ながら純粋な思考によっては果たせない。思考の結果と現実とを見比べてモデルの精度評価をする必要がある。このことを忘れている人たちは結構いて、彼らはたいてい運が悪い。