Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0209

 語られたことはすべて規範的である。なぜなら、その内容を肯定するにせよ否定するにせよ、ある文を理解するということは、その文が真となるような条件を理解することであり、それはとりもなおさず、それらの条件が「見えている」ことを要請するからだ。たとえば「緋色と紅色は別の色だ」という文を理解しようとするとき、われわれはすでに「緋色」と「紅色」という色の存在――すなわちある特定の境界線の実在――を前提させられてしまっている。そして知らぬ間に前提させられてしまったそれらの前提が、われわれの世界をそのように教育していくのである。

 語られに規範性を与えるのは、「言葉には意味がある」というわれわれの態度である。

0208

 回転式に生活をやっているとふと旅に出たくなる。ここではないどこかの絶景を思い浮かべて、それを前に立ち尽くすことができたらどんなにいいだろうと考える。だがそうした瞬間に僕の頭を占めているのは、(インターネットや駅のポスターなんかで見て記憶に残っている)四角いフレームで切り取られた魅力的な旅先の「カット」であって、実際にそこに居る自分が知覚するはずのものでは必ずしもない。旅行パンフレットにプリントされた光景が美しいのは、それが視聴者の視線を強制するからであって、フレームの外側に目を向ければ、案外みみっちい人類の営みが広がっていたりする。観光客の人混みとか自動車の騒音とかね。だから結局、物足りない気持ちになるんだろうなと予想はするわけだけれど、それでもやはり、ここではないどこかに期待する気持ちがある。広い世界のどこかには僕にとって完璧な風景というものが存在しているのではないか。いつか探しに行きたいものである、とか。そんなことを考えていたら一日が終わってしまった。まあそれはそれでいいんだ。

 

0207

 僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。という気持ち――気概と言ってもよいかもしれない――を取り戻していきたいと思う。近頃の僕はどうも言葉を意思疎通(これには自分自身との対話も含まれる)にばかり浪費している。それではいけない。光あれ、と神が唱えたその言葉こそが僕でなければならないのだ。

1130

 人間の思考はシンボルの集まりを再度シンボルとして認識することで進行してゆく。例えば、以下の問題*1を解く場合について例に考える。これは Bongard Problem という有名な問題で、左右6枚の模様はそれぞれ別のルールに従っている。このルールを発見するのがこのパズルの目的である。

http://www.foundalis.com/res/bps/doughof/p111.gif

すべての画像は、○△□が入れ子になっている。この入れ子の順序を外側から順に縦に並べて書くと次のようになる。

f:id:Raprto:20191130212030p:plain
図示してしまうと瞭然だが、左は真ん中の行がすべて△であるのに対し、右は真ん中の行がすべて△以外の図形である。ここで重要なのは、上のように描かれてしまえば、人はパターンを「一発で」認識できるということである。このように人間がひと目見てそれと認識できるようなパターンをシンボルと呼ぶことにする。△はシンボルであり、△の列もまたシンボルであり、それゆえにわれわれはここにルールを見出すことができている。裏を返せば、「一列に並んだ△」(ないしそれに類する表現)にそれ自体の意味を見出すことができなければ、人は上記の問題を解くことができないということだ。そのような人は「ほら、△が一列に並んでいるだろう」と答えを教えても納得できない。これは単純な例なのでそのような事態は想像しづらいが、もう少し複雑なシンボルになるとそれに対する認知能力を持たない人が案外多くいたりして、不幸な断絶が発生したりする。それはさておき。

 文章を書く筋力がめっきり落ちてしまった。それから、言葉とその旋律に対する感受性の鈍麻。労働は悪い。

 ここでいうシンボルとはなにか。人間の頭の中に特別の場所を割り当てられているパターンのことだと僕は思っている。人間の頭に入ってくる視覚的聴覚的その他的パターンは無数に存在するが、その中で人間生物の生存に重要なものはそう多くない。そうしたものに特別の符号を割り当て、それ以外を切り捨てる、要は情報の圧縮だけれど、おそらく脳はそれをやっている。その際、類似したパターンには類似の符号が割り当てられるが、この類似性を規定するのは、そのパターンを認知した直後に取るべき行動である。トラに遭遇した場合とクマに遭遇した場合、どちらも取るべき行動は逃げることだが、それゆえにクマとトラには類似の符号が割り当てられるべきなのであり、実際そのようになっているはずである。シンボルは多くの場合に予測に関わるために、シンボルは一部が欠けたとしてもそれが復元できる場合が多い。あるいはそのような復元が可能なパターンを、生き物はシンボルとして獲得している。現在を見れば過去/未来が復元できるという意味で、法則もまたシンボルである。

 林檎や樹はシンボルであり、これらの結合すなわち林檎が樹になっているという事態もシンボルであり、それゆえサルは林檎に手を伸ばす。《それ》がシンボルとして分節化されてはじめて生き物は意味のある(という表現の意味がそれなのだが)行動を取ることができる。ここで重要なのは、シンボルの結合が有意味なのは、結合したシンボル集合がまたシンボルである場合に限るということだ。△の並びは、「一列の△」というシンボルを呼び起こして初めて、先の問題の答えを人に教えるのである。

 データ分析における可視化というのは、「人間というパターン認識器」が何らかのシンボルを見出だせるようにデータを変形することである。そういう意味で、カーネル法がデータ空間を曲げるのとなんら違いはない。モデルの解釈性云々というのも、そこに人間の知っているシンボルが存在するか否かというだけの話である。

 言葉もまたシンボルの一種である。単語はシンボルであり、文もまたシンボルである。言語には、シンボルがまた別のシンボルを誘発するという性質があり、言語的思考はそのようにして進む。誘発されるシンボルに強い制約がかかっている場合に、それは論理的であると呼ばれる。一般に言語的思考は永久に続くものではなく、どこかしらでシンボルがシンボルを誘発しなくなる。それは例えるなら数を繰り返し掛けた結果極端に大きくなったりほぼ0になったりするようなもので、パターンがシンボルとして認知される領域から出ていってしまうのだ。ところでシンボルがシンボルを永久に算出し続ける領域があって、それは数と計算である。そのようなことが可能となるためには、計算におけるシンボルの誘発(変換)には何らかの特殊な性質が要請される(先の掛け算の例えを用いるなら、常に1を掛けているような)はずだ。それがどういうものであるのか興味がある。
 人工知能が人間より賢くなって人間に理解を超えた思考をするようになると言われるけれども、ここで人間を超えるのはおそらく認知できるシンボルの複雑さであって、しかし無限の世界を相手取って思考するためにはただ複雑なパターンを認識するだけでは駄目で、やはり何らかの「計算」を生み出す必要があるだろうと思う。それはやはりシンボルに対する変換として何か特殊な性質を持っているはずで、その大雑把な仕組みを理解すること自体は人間にだってある程度可能なのではなかろうか。ニューラルネットの中身は分からなくとも、なにか巨大な行列を掛けているということは分かるわけだし。

 支離滅裂な文章になってしまった。いつか書き直す。

0822

 ここ半年ほど、学部教養程度の微積分を復習していた。あまり心の体力に恵まれた人間ではないので、仕事の合間に少しずつ、それも大半の時間を、極限の議論で用いられている思考の枠組みを頭に馴染ませることに集中していた。それでわかったのは、実数というのは、ある種の無限に続く操作に対して数直線上の(唯一の)居場所を割り当てる仕方であるということで(自分にとってより自然な言い方をするなら、そのような仕方が存在するという約束をすることで)、これに得心がいってしまってからは、あとに続く微分積分の議論はまあまあ自明のことに思われて、なるほど基礎を理解するとはこういうことかと感動したりしていた。僕の理解が数学者の見解に照らして「正統な」ものであるかは自信がないが、少なくともそのような捉え方をすることで教科書の内容を圧縮して脳に収められたことは確かで、これまで(ウィトゲンシュタインの思想の一部―これはもともと自分の脳との親和性が極めて高かった―を除いて)空で再現できるほどに何かを習得できたことのなかった僕にとっては大きな進歩である。

 何かを理解するということは、新しい文体に習熟することであるということは、だいぶ以前から認識してはいた。つまり言語ゲームのルールに慣れるということだが、それを実際に行うことは、依然として自分には難しかった。やはりどうしても、理解を、意味という神秘的オブジェクトを捕食する営みとして捉えてしまう。言い換えれば、対象の意味を文体と独立であると考え、自分の中に既存する文体でもってそれを記述しようとし、その既存の文体を超える対象のエッセンスを取り零してしまうのだ。「カタチから入る」ことができないのは、自分の弱点の一つだろうと思う。もっとも、それを美徳だと考える自分がいることもまた事実である。カタチから入ることが極端にできないがゆえに見えたもの(美しいものである)だってある。それは大切にしたいと思う。

 おそらく外国語の学習もカタチから入るのがよいのだろう。とりあえずなにか言ってみる。そうして、その言語における「自分の言いたいこと」をつくってゆく。いわば新しい人格を作るようなものだが、言語習得の得意な人はそれを自然にやっているのではないか。翻って自分は「日本語における自分の言いたいこと」以外に「言いたいこと」をつくるつもりが毛頭なかったために、ある程度の直訳が可能というレベルを超えて外国語を習得することができなかったのではないかという気がする。いまのところ技術的な英語が読めればそれで十分ではあるのだが、最近ちょっと日本語の外側がどうなっているのか気になってきているので、異言語用人格の一つや二つ新しく用意してみてもいいかもしれない。必要なのはたぶん、幼児期のもどかしさに耐える覚悟である。


 久しぶりに深夜にモニタに向かい文章を書いている。夏の夜は寝苦しくてよくない。とある大学で講義をするという、自分には分不相応な業務を仰せつかっていて、それのストレスもある。人前に立つのは苦手だ。どうか誰も僕の話を聞いていませんように。

 労働における自分の仕事内容が公(?)に対して開かれていないことにどうも自分は不満を抱えているらしいということに最近気づいた。これは自分の働きが組織の外部から評価されていない云々という話ではなくて、それぞれの業務が、会社やクライアントの私的な(そして瞬間的な)意図のもとにあって、歴史的連続性という形式を備えていないことに対する不満である。言ってしまえば、過去の自分と現在の自分が、ひとつの人間の中で相互作用できていないのだ。哲学することはそうではなかった。過去の僕の思想は、たとえそれが拙いものであっても、僕という歴史の中の一つの位置を占めていた。だが業務上の僕は、雑多に積み重なるコードスニペットの集合であり、時間性は喪われ、ただ散逸してゆく日々があるのにすぎない。べつに無意味なことをやっているとは思わないし、ときに創造性を要することもある。だがそれでもいま自分がやっていることは作業ではあっても仕事ではないと思う。人間が生きるということではないと思う。なんとかしたい。なにをすべきかは、まだわからない。

0727

 僕が数学に対して抱いていた疑念の中核は、数学の予言性はどこから来るのかということで、その予言性は、1.数学体系内における予言性と、2.自然現象に対する予言性の2つに大別される。1.は例えば、すべての自然数を調べ尽くすことなく示されたフェルマーの最終定理の主張が、実際に無数の自然数の組に対して成り立っているよう見えること、2.は例えば、5人つづけて7人と入っていった小屋の中にいま12人がいることをなぜ計算によって確かめられるのかということである。そしてそもそもなぜ数学の予言性を問題に感じるようなったのかといえば、数学的命題が備えているよう見える必然性が、この世界において本当に特権的な地位を占めているのか、すなわち真理であるのか、気になったからである。
 僕が暫定的に与えているところの解答は、数学の必然性とは、その真理性の帰結というよりはむしろ人間が数学に要請している性質であり、自然科学に対する予言性は数学対自然ではなく人間対自然の関わりの裡に存在する、そしてこうしたことが可能になっているのは、この宇宙が何かしら気の利いた性質を持っているから、というものになるのだが、この解答は〈言語ゲームを支える方の自然〉の観念に多くを依拠しすぎていて、結局のところは概念的に少々入り組んだ諦観に過ぎないような気もする。「概念的に少々入り組んだ諦観」でないものが果たしてこの世に存在しうるのかというと怪しいのだが。

 中谷宇吉郎(「なかやうきちろう」と読むらしい)著『科学の方法』を読んでいる。中谷氏は寺田寅彦の弟子の物理学者である。この『科学の方法』は彼の科学観を述べたもので、1958年に書かれたものだが、内容はまったく古びておらず面白い。科学はあくまで「再現性」と「数値的測定」に基礎を置く人間的営みであって、べつに「自然のほんとうの姿」を明らかにするようなものではないという彼のものの見方はきわめてプラグマティックである。中谷氏は、数学は人間の頭の中で作られたものであるから、基本的には自然について何かを教えてくれるものではないと書いており、同じくプラグマティズムで有名な C. S. パースの主張と通底する。ただし彼は同時に、数学は多くの人類が考えてきたことをその構造のうちに有しており、ゆえに数学によって考えることで他人の天才を利用できるとも書いている。素晴らしいバランス感覚だと思う。
 明治~昭和中期頃の日本の科学者が持っていたある種仏教的な科学観には、世界的にみてもかなり独特なものがあったのではないかと思う。またそれはかなり正解に近いところを突いていたのではないかと(贔屓目ながら)思うのである。こうした自然観は今ではめっきり失われてしまったように見える。ただ忘れ去られたのか、消化されて目に見えないところで生き続けているのか、後者であるなら嬉しいが。

臆病者の国

 参院選に立候補していた東大教授の安冨歩さんが「臆病な人に国政を任せてはいけない」と主張しているのを読んだ。幼い頃から親や周囲の期待を背負い「成功しない自分に価値はない」と心底信じ込んだ人たちは、たしかに優秀な傾向があるし、社会的に成功することも多いが、彼らは結局自分の外側に価値判断の基準を置いてしまっているので、周囲から批判されないことを第一に行動してしまう。それが社会の歪みを作っているのではないか、という内容の記事だった。それはそうだなと思った。
 その手の臆病者が自分の臆病さを自覚するのは難しい。臆病であることは社会的成功者のイメージから遠いからだ。彼らは、たとえば、平時では「なんだアイツ」と感じている相手であっても、いざ対面するとなんだかんだ好意的に解釈して無難に調子を合わせてしまい、しかもそれを自分の機転と寛容のなせるわざだと思っていたりする。あるいは、取引先の無茶な要求を笑顔で呑んでしまい、しかしそれは自分の善意によるところだと思っていたりする。実際には目の前の相手に非難されることを恐れただけであるのに。彼は自分の臆病さに気付かないままに、ときに言葉の上では自立と体制からの独立を称揚しながら、既存の権力構造を維持する力へと加わってゆく。意図せず吐かれた嘘たちが場の構造を歪にしてゆく。東大で飽きるほど見た光景であり、かくいう自分も彼らに含まれている。
 自分の臆病さを克服し、真に自分の思うところを実行する胆力を得たとしても、臆病者の群れからは排斥されてしまうだろう。臆病な人達からすれば、彼は場の空気を乱す「不道徳な」異分子に過ぎない。組織からただ一人放り出されることは生活に関わる事態であり、たとえ勇気ある人間であっても、それは避けたいと思うのが普通だ。だから、臆病者に支配された世界は、こんどは機会的経済的圧力によって、勇気ある人たちをも支配するようになるだろう。そうして発生した臆病な全体主義的社会が、いまの日本の実相なんじゃないかと思う。どう打開すればよいのか。