Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1006

 自由とは何かという問いは途方もなく難しいが、視点を変えて、人が不自由を感ずるのはどのような場合かを考えてみると、こちらについては比較的簡単に結論を出すことができて、それは欲求が抑圧されている場合であると思う。とくに、叶えられて然るべきと思われるような望みがなんらかの理由で妨げられているときに、人は不自由を感じるのではないだろうか。

 思えば、自由の敵はいつだって他の人間である。たとえば重力はわれわれを地表に縛り付けており、重力を無視できるようなれば人間はより自由になるに違いないのだが、それをもって重力の存在を自由に対する抑圧だと主張する人間は少ない。だが、重力を無視する技術が開発されたとして、そこで誰かがその技術を不当に禁止したとしたら、人々は不自由を感じはじめるのではないだろうか。この意味で、自由への欲求とは(とくに制度に由来する)不平等に対する憤りである、ということができるかもしれない。(ある種の)自由とは実のところ平等のことを指していたのである。

 可能であるはずのことが禁じられている、という事実を認識しているから、そこに不自由感が伴うのである。そしてそれが可能であることを最も雄弁に語るのは、自分と同じ他の人間がそれをやっているという事実である。したがって、少なくとも社会的な文脈においては、自由とは単純にしたいことをすることではなく、アイツにやってよいことは俺にも許されるべきだという思想のことである、といえる。アイツは別の時代の人物かもしれないし、異性や外国人かもしれない。

 社会的な自由がおおむね平等の概念に等しいということは、裏を返せば、平等が担保されている限り、「やってもいいことリスト」が縮小されたとしてもあまり不自由感は出てこないのではないか、ということになる。もちろん過去の自分たちも「アイツ」であるから、禁止された直後は不満も出るだろうが、それを忘れてしまったとしたら。われわれはたとえば「好きな色の服を着られる」ことを真の自由だと感じ、それに満足して生きていくかもしれない。

 ところで、「やってもいいことリスト」が小さくてかつ「自由」な社会では何が起こるかというと、みんなが自分を「病気」だと思うようになる。それは人間にはあまりにサイズの小さい服なのだが、人々はそれをフリーサイズだと思っているから、自分が異常な肥満体型なのだと認識するのだ。

 とかとか。

哲学探究を読む(8)

 一週間以上空いてしまった。よくない。とにかく第10節。

 それでは、この言語の語は何を表記しているのか。――その慣用のされ方においてでないとすれば、それは何を表記し、その何かはどのようにして示されるのだろうか。〔語の〕慣用については、われわれはすでに記述した。すると「この語はこれ(「これ」に傍点)を表記している」という表現は、この記述の一部になっているのでなくてはなるまい。言い換えれば、この記述は「……なる語は……を表記している」という形式をとるべきなのである。

 意味を取りづらい文章である。頑張って解読したいと思うが、間違っている可能性は多々あるので、この文章を読んでいる人のなかに上記の引用をすんなり理解できる方があればコメントで教示願いたい。

 まず「この語はこれを表記している」という表現はその語の慣用の記述の一部になっていなければならない、ということが書かれているが、これは本当だろうか?もしその語が何かを表記しているとすれば、そのことは慣用の記述に含まれていなければならない、ということだろうか。「これ」に傍点(原文では斜体の das)が振ってあるのも気になる。第8節の言語で定義された「これ」を意味しているのだろうかと思って原文を見てみるとこちらは diese だった。無関係?

 「その慣用のされ方においてでないとすれば」と前置きしていることに注目すると、ここでは、語の表記対象とは(存在するのなら)慣用とは独立に定まるものだとされているように読める。とすると、慣用の記述にこのことが含まれているのはおかしいのではないか、という気がする。いや、そうでもないのか?「石板」が石板を表記している、という事実が慣用云々以前にあったとして、それは当然慣用に影響するのだから、慣用の記述に含まれていてもよいのかもしれない。ああ、たぶんそういうことだ、と思う。「石板」が石板を〈表記〉しているなら(これから山括弧〈〉をやや超越的な雰囲気を込めて使うことにする)、その慣用ももちろん「「石板」は石板を表記している」になるはずだ。……しかし、「われわれはすでに記述した」が第2節および第8節を想定しているのだとすれば、そこに「……なる語は……を表記している」という形式の記述が存在しないことは少し気にかかる。やはり僕の読みは間違えているのだろうか。とりあえず続きを検討してみる。

 ところで、「石板」という語の慣用の記述を縮めて言うことができるとすれば、それは、その語がかかる対象を表記しているとひとが言っている、ということになろう。そのような言い方をするようになるのは、たとえば、「石板」という語はわれわれが実際に「台石」と呼んでいる形の石材を指しているのだ、と考えるような誤解を取り除くことが問題になるときぐらいのものである。――ところが、こうした指示「関係」のありよう、すなわち、それ以外の場合におけるこの語の慣用は、すでに知られている。

 うーん、、、さらに混乱してきたし、悩んでいるうちに夜も遅くなってしまった。次回もう一度考えることにする。

哲学探究を読む(7)

 第8節では第2節の言語が拡張される。追加される語は数詞 a, b, c, …… および「そこへ」「これ」である。また助手には一冊の色彩標本が渡される。など。すると「d―石板―そこへ」や「これ―そこへ」などの文が言えるようになる。

 続く第9節では、第8節の言語を子供を学ぶ過程が考察される。まず数詞についてだが、子供が数詞・あるいは数えることをどのように学ぶのかについては、ウィトゲンシュタインは決定的なことは述べていないように思える。ただし、最初の5,6個の数については、数えることとは独立に、直観的に把握可能なものの集まりとして直示的に教えられる、と彼は言っているように読める。

 うーん、、、「直示的教示」という概念に対してウィトゲンシュタインがどのような判断を下しているのか、あまり理解できている自信がない。そもそもこの段階では、彼は何らかの判断を下すことを避けているのかもしれない。たんに問いを準備しているだけで。いちおう、直示的教示と呼ばれるようなやり方が、語の慣用を子供に教えるうえで役に立つ、ということ自体は、ウィトゲンシュタインは認めているように読める。しかし直後に彼は次のように書いている。

 「そこへ」および「これ」も直示的に教示されるのだろうか。――ひとがどのようにしてこれらの語の慣用を教えうるのか、思い描いてみよ。そのとき、場所やものが指示されるであろう、――しかし、その場合、この指示は、語の慣用に際しても行われるのであって、そうした慣用の学習に際してだけ行われるのではない。

 「そこへ」の教育について言えば「直示的教示」はある意味で余計な概念である。なぜならここでは教育と慣用が一致しているから。つまり、直示的教示はある場面では役に立つかもしれないが、言語において不可欠のものではない。ということを言おうとしているのだろうか?


 どうも今日は頭の回転が鈍っており、一度に把握できる文章・論理展開の総量が著しく減少しているのを感じる。覚醒のためのいくつかの技法も功を奏さない。自分の頭はもう二度と晴れることはないのではないか、と不安になるが、過去にも同じことを何度も思ったし、その度にまた意識のはっきりするときは訪れたのだから、信じて休むことにしよう。次の第10節はかなり読みづらい。はやく明晰さを取り戻したい。

哲学探究を読む(6)

 いまさらだが1節ずつ読んでいく方式だとその都度意識が寸断され議論の全体像を追いづらくなってしまう。この辺で一度流れを整理しておくことにする。

 まずアウグスティヌス的な言語観が提示される。この言語観においては、言語とは意思疎通の一つのシステムであり、語の意味はその指示対象によって与えられ、話者はそれらの語を並べることによって意思を表現する。この言語観はウィトゲンシュタインに言わせれば「あまりにも単純な言語のとらえかた」ではあるが、人間の言語にたいする原初的な観念のうちにいまだに安住している。そこで(ウィトゲンシュタインは自分の意図を明示していないのでこれは想像だが)この言語観と対決するために、アウグスティヌス的言語観が成立するような言語のサブセット(第2節の言語)を提示する。これは、われわれの言語のひとつの原初的形態とみなすことができ、とくに子供が言葉を学ぶときには、このような形態が現れるという。

 ――ちょっと混乱してきた。第2節の言語は、アウグスティヌスの記述に当てはまるものとして導入されているが、しかし第2節には「「石板」が石板を指示している」とは書かれていない。「石板」はBに石板をもっていかせるという機能を果たすということだけが書かれている。という意味では、アウグスティヌスの言語観を反映した言語ではない、気がする。――ああ、理解できたかもしれない。つまりこれは、アウグスティヌスの記述が説明として間違いではないような言語の例なのだ。もしアウグスティヌスの記述を「反映」したような言語が存在するとすれば、「「石板」が石板を指示している」という表現に対応する《事実》が存在せねばならない。だがわれわれに《事実》そのものなど見ることはできず、あくまで観察された事態に対する「説明」があり、その説明が妥当するかしないかという(人間的)判断があるのに過ぎないのである。まとめるとこうなる。第2節の言語は、(外から見る限り)しかじかの機能を持っている。こうした機能が実現されている背景として、語と対象の対応が存在するというアウグスティヌスの説明は、間違ったものではない。そういう言語として第2節の言語が用意されているのである。――うーん、なんか間違っているような気もする?

 第5,6節では、第2節の言語を子供が学ぶときのことが考察される。第2節の言語がそこで用いられている全言語であるような社会を考える(そのような社会を想像することはできる)。そこでは、第2節の言語を「説明」することはできないから、子供たちは(そのような活動を行い、その際そのような語を用い、そのようにして他人の言葉に反応するよう)「訓練」されることになる。訓練にはさまざまな仕方がありうるが、ひとつは、アウグスティヌスの記述にあるような、対象を「名ざす」ことによって語と対象の間に連想的結びつきを形成するという方法であり、これをウィトゲンシュタインは「直示的教示」と呼んでいる。アウグスティヌス的には、この連想的結びつきが語の「意味」ということになる。ところで、第2節の言語において叫び「石板!」のはたすべき役割は、助手Bが建築家Aに石板を手渡すという事態を生じさせることであった。この実現のためには、単に「石板」と石板の間に連想的結びつきを形成するだけでは不十分であり、さらに別の訓練を要することは明らかだろう。また裏を返せば、そうした連想を持たない者であっても、その叫びにたいしてしかじかのふるまいをする者は、その叫びを「理解」しているといえるのではないか(彼にとっては「石板!」はわれわれの言語における「石板を持ってこい」に相当するかもしれない)。こうした考察が明らかにするのは、語と対象の対応という観念は、第2節のような単純な例であっても、言語の働きをうまく説明しない、ということである。と思う。少なくとも第2節の言語を彼が理解したというためには、実際にその叫びに応じて材料をもっていくということができなければならない。それは「心の中に像が浮かぶ」だけでは不可能である。


 さて、続く第7節。

 第2節の言語を実際に用いるとき、一方の側は語を叫び、他方はその語に従って行為する。しかし、言語の教育に際しては、次のような過程が見られるであろう。教わる者が対象を名ざすということ、すなわち、教師が石を指し示すなら、〔それを名ざす〕語を発音するということである。――さらに、この場合、教師があらかじめ言った語を、そのまま生徒があとから発音するといった、もっと簡単な練習もあることだろう――この双方ともに言語に似た出来事である。

 似た出来事である、というのはつまり、これらが語の目的であるような場合も考えられる、ということであろうと思う。

 われわれはまた、第2節における語の慣用の全過程を、子供がそれを介して自分の母国語を学びとるゲームの一つだ、と考えることができよう。わたくしは、こうしたゲームを「言語ゲーム」と呼び、ある原初的な言語をしばしば言語ゲームとして語ることにする。

 自分の母国語というのは第2節の言語ではなく、われわれが普段使いしている言語のことである。ここではじめて有名な「言語ゲーム」が登場するが、この時点ではこの用語はあくまで、子供が言葉を学ぶときに用いる言語の原初的適用法(第5節)を指している。

 すると、石を名ざしたり、あらかじめ言われた語をあとから発音するような過程もまた、言語ゲームと呼ぶことができるだろう。

 第2節の言語を学ぶうえでは、これらもまた「言語ゲーム」でありうるということを言っている。つまり「言語」と「言語ゲーム」の関係はいくらでもスライドさせうるのであって、逆方向に向かえば、われわれの言語全体もまた「言語ゲーム」と呼ばれうるかもしれない、ということがここで示唆されている。

わたくしはまた、言語と言語の織り込まれた諸活動との総体をも言語ゲームと呼ぶだろう。

  つまり身振りや手振り、マナー、突き詰めれば、われわれの生活の全体が、言語ゲームに含まれる。

哲学探究を読む(5)

 ここ数日の間に決めねばらならないことがいくつかあり、その決断に精神のリソースを消費してしまっていた。だいぶ時間があいてしまったが、第6節。

 言語獲得以前の子供は、言葉を理解しないので、言葉による説明を介して言葉を学ぶということはもちろんできない。だから、言語獲得の少なくとも初期段階は、「訓練」を通じて行われる。訓練にはさまざまな形態がありうる。たとえば「教える者が諸対象を指さして、子供の注意をそれらのものへ向け、それとともに何か語を発すること」は一種の訓練といえるだろう。ウィトゲンシュタインはこれを「語の直示的教示」と呼ぶ。この用語は言語獲得の訓練的性格を強調する点で「直示的定義」と対になっている。言葉の全体が与えられていない限り「定義」や「説明」は不可能なのである。この話題については『青色本』の冒頭でも考察されていた気がする。

 訓練によってなにが生じるか。第1回で僕が述べたようなことが子供の脳内で生じているのかもしれないし、まったく別のメカニズムが機能しているのかもしれない。しかしまあ、言葉と、その言葉が発される状況(その時点では《対象》はまだ与えられていないかもしれないことを指摘しておく)との間に、なんらかの連想的結びつきをつくり出している、ということは認めてよいと思われる。その結びつきとはたとえば、「子供が語を聞くと、ものの映像がその子の心に浮かび上がってくる」ということかもしれない。じっさい、僕も「猫!」という語を聞けば、頭のなかに猫のイメージが浮かんだりする。そういうことがあるので、言葉の意味と「表象」とを同一視するような傾向が、人々のうちに生じるのである。

 しかし、もし仮に言葉に表象を喚起する機能があるとして、それだけで言語の目的は果たされるのだろうか。逆に、たとえば「石板!」という叫びに応じて特定のふるまいをする者は、たとえそれを聞いて脳裏に石板を思い浮かべることがなくとも、その叫びを理解しているといえるのではないか。もちろん語によって呼び起される表象が、そうした理解の助けになっていることはあるのかもしれない。しかし表象があるだけでは、彼は石板を手渡すことはできない。叫びに応じて適切な材料を手渡していくためには、一定の教育を受ける必要があるのであって、異なる教育を受ければ、同じ直示的教示を受け、語に対し同じ表象を思い浮かべる者であっても、まったく異なった理解が生じるだろう。

 ほとんど第6節の内容を書き写してしまった。人に読まれうる場所に書いているという意識が、本文の内容を過剰に説明させてしまうようだ。しかしまあ、知らずのうちに内容を読み飛ばすということは起こりにくいはずで、これはこれでいいかもしれない。あとはもう少し、本文と対話するような内容を書いていけるといい。

 この節におけるウィトゲンシュタインの意図はおそらく、表象へと向きがちな読者の視線を、それ以外のもの、たとえば「石板!」に応じた特定のふるまいなど、へと拡げること、それによって言語の全体性を意識させることにある、と思う。或るものが或るものであるということ自体、それ以外のものとの関係があって初めて成り立つのであって、その意味では、表象と語の結びつきもまた、その全体性のなかにあってこそ意味を持つ。というとちょっと言い過ぎだろうか。

 「わたくしはロッドをレバーに結びつけて、ブレーキを修繕する。」――もちろん、そのためには、ほかの全機構が与えられていなくてはならない。それ〔との関係〕があってはじめてブレーキ・レバーはブレーキ・レバーになるのであって、その支えから切りはなされているなら、レバーですらなく、どのようなものでもありうるし、また何ものでもありえない。

 

哲学探究を読む(4)

 昨日よりは元気になったとはいえ、頭の働きが鈍っている。思考がなかなか形を成さない。こういうときは、意識的に一度頭を真空状態にしてしまうのがよいことを知っている。気圧差に導かれて、空っぽになった頭の中にぽつぽつと考えがわいてくる。これをゆっくりと凝集させていく。

 文章を読むと、その内容に思考を支配され、ただなんとなく納得させられてしまう、という事態にしばしば陥る。しかしその納得は、普段の自分の考えがその文章によって追い出されてしまったことによる幻想なのであって、我に返れば消えてしまうようなものである。これを避けるためには、文章を読みながらも、通常の自分を維持しつつ、ときに文章の言わんとするところと言葉の刃を交えねばならない。文章と切り結ぶことによってはじめて、その内容は持続性のある輪郭をもつのだ。これが「批判的に読む」という表現の意味であると僕は思う。


 第5節。短いので全文引用する。

 第1節の例を考察してみると、ひとは、おそらく、語の意味という一般的な概念が、どれほど言語の働きを煙霧で包み込み、明瞭にものごとを見ることを不可能にするか、を予感するであろう。――もしわれわれが言語という現象を、原初的なその適用法にそくして研究し、その適用例において語の目的とはたらきを明瞭に見渡すことができるのであれば、そうした煙霧は霧散する。

 言語のそのような原初的諸形態を、子供は、話すことを学ぶときに用いる。その場合、言語を教えるということは、それを説明することではなくて、訓練するということなのである。

 ウィトゲンシュタインは「意味」という表現を、われわれを哲学的混乱に導く元凶のひとつとみなしている。その理由は、僕の記憶が正しければ、これから繰り返し語られることになるだろう。

 たとえば第2節で導入された言語のはたらきについては、とくに疑問の余地はないように思われる。建築家Aの呼びかけに応じて、助手Bは材料を渡す。この営みは、現在では完全に機械化することができる。機械建築家Aの発した音声は、機械助手Bのマイクに入力され、たとえば短時間フーリエ変換により特徴量化されて分類され、対応する材料がコンベアで運ばれる。似たようなことが人間の頭の中で起こっていたとして不思議ではない(もちろん起こっていないかもしれない)。この経過の中に、混乱の生じる余地は基本的にはない、と思われる。第1節の繰り返しになるが、重要なのは、この例において言葉の「意味」は問題になっていない、ということだ。言語の目的と働きは明らかであり、それ以上でも以下でもなかった。

 第2節の言語の語彙(「台石」「石板」など)は、われわれの言語の中では様々な用法や意味を持っている。しかし、第2節の言語における用法が、これらの言語の原初的な適用例のひとつであることは認めてもよいように思われる。つまり「石板」という言葉は、このような目的で使われる場合が確かにある、ということだ。ここで「石板」の原初的形態は第2節の言語のみである、とウィトゲンシュタインが主張しているわけではないことには、注意が必要である。あくまでも、「石板」という語のある側面の原初的形態が第2節の言語なのであり、その限りでは「石板」という語のはたらきは明瞭である、というのが、ウィトゲンシュタインの述べていることである。

 つまりウィトゲンシュタインの戦略はこうである。漠然と語の意味を考えてもわれわれは混乱に導かれるだけである。そこで、その語の原初的諸形態がどのようなものであるかを調べてみよう。そうすれば混乱は霧散するはずである。

 最後に、言語の原初的形態が、子供の言語習得にさいして現れることを指摘している。言葉を知らない子供に対して、言葉を用いて言葉を教えることはできない。したがって、ここで行われるのは、説明ではなく「訓練」である、ということになる。余談だが、この辺の洞察はおそらく、小学校教師時代に培われたものであろうと思っている。彼は、子供が言葉を獲得してゆく過程を見たのだ。

哲学探究を読む(3)

 どうも今日は一日中体調が悪かった。全身の神経がひりついている感じ。それはさておき第3節。

 前節では、一つの小さな言語が提示され、これを「完全で原初的な言語」と考えてみよう、という提言で終わっていた。だが、ここで注意しておかねばならないことがある。われわれが本来考えたいのは、われわれが普段使いしているほうの言語についてなのであって、前節で提示された言語についてではない。したがって、この小言語を例に挙げての考察に意味があるのは、この小言語とわれわれの自然言語とのあいだにある種の連続性が成り立っている場合のみであるように思われる。ウィトゲンシュタイン自身、以下のように書いている。

  アウグスティヌスの記述しているのは、意思疎通の一つのシステムである、と言うことができよう。ただ、われわれが言語と呼んでいるもののすべてが、このシステムであるわけではない。そして、このことをわれわれは、「この表現は適切であるか、適切でないか」という問いの生ずるきわめて多くの場合に、強調しなくてはならない。そのとき、答えは、「しかり、適切である。しかし、この狭く限られた領域についてだけ適切なのであって、あなたが表現していると称する全体についてではない。」ということである。

 相変わらず体調が悪く、まともにものを考えられる状態にはない。続きは明日にする。


 明日と書いたが不調が続いたため2日後になってしまった。

 先に「この小言語を例に挙げての考察に意味があるのは、この小言語とわれわれの自然言語とのあいだにある種の連続性が成り立っている場合のみであるように思われる」などと書いたが、ある程度元気になった頭で考えてみると、これはウィトゲンシュタインの考えとはおそらく異なる。が、このことを論じるためにはさらに先を読み進める必要があるだろう。

 第3節と続く第4節で述べられていることをさしあたりまとめてしまうと、「アウグスティヌスの言語観はあまりに単純であるが、しかし領域を限定することによって正すことができる。このように、説明(表現)は特定の領域でのみ妥当する場合がある、ということをつねに強調せねばならない」という感じになるだろうか。こう書いてみると当たり前のことを述べているだけのように思える。なにか見落としがあるのだろうか。どうもこの節の位置づけをうまく理解できていない感覚はある、ので後で誤解が明らかになるかもしれない。とりあえず先へ進もう。


 そういえば、第1回で書いた「読書筋」の話題にブログで言及してくれている人がいた。ちょっと嬉しかったので補足しておくと、「書いてあることを書いてあるままに読む」というのは、突き詰めれば、そこに書かれている文字列が有意味であるということを前提したうえで、それが成立する諸条件を探求することである。似たようなことを以前ここ*1に書いている。