Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 昨日あんなことを言っておきながら、今朝起きたのは十二時でした。それもう今朝ちゃうやんというツッコミはさておき。僕はもうダメです。うう。
 早めに寝るつもりだったのですけど、今寝て遅刻するくらいなら徹夜したほうが良いのでは時間に突入するまで寝付けなかったのが敗因だと、上層部はそう判断しています。ああ、これで何度失敗したことか。そろそろ経験的に分かっていて良いはずなのに、深夜の自分の判断力恐るべし。1限はまあ良いとして、記号論理学Ⅱ受けられなかったのが痛いです。ちゃんと本読んで自分なりに勉強していたのは幸いか。焦燥感に殺されそうになってきたので、5限後に図書館で勉強しました。
 そういえば5限、久しぶりに授業がありました。先週、先々週が休講で、もしかして教官、ヤバい研究に手を出してるのでは、とか妄想していたのですけど、単に病気をしてらっしゃった模様。ほんとかな。(陰謀論陰謀論!(なんか違う))
 内容は、視覚の仕組みについて。特に奥行きがどうこう、とか。錯視が存在すること、認識がトップダウン的に行われていることの傍証なのだと言う話は、ちょっと興味深いというか、自分で気付いておくべきことだったなとか思ったけども、それ以外に目新しい話はあんまりなくて残念。まあスライド上でいろんな錯視や視覚効果を見れて楽しかったで概ね満足かな。小さい頃はステレオグラムを自作したりそれでパラパラ漫画作ったりして遊んでいたので、その話が出たときはちょっと懐かしかったです。今ならもっと凄いの描けるかしら。

 計算可能性の話。先週質問した時教官にお薦めされた、「帰納的関数と述語」をちょっと読みました。計算可能関数と再帰的関数が同値だというの、どうやって示すのかもにょもにょしていたのですけど、読んでみるとなんてことはない、実際に計算モデルを作って、計算可能なことを示していました。それで良いのかなあと思わないでもないけれど、計算可能性自体がその辺の概念ぽいし、まあ良いのかな。この前情報科学の時も書いたけど、漸化式で計算できるの凄いです。ゴリ押しの計算なわけだけど、ゴリ押しはゴリ押しであるぶん、十分な計算速度さえあれば、単純な仕組みでなんやかんや計算できてしまうこと。人類は凄まじい力を手にしているのだと、感じます。こわわ。

 1階の述語論理では、例えばニワトリが2羽いる、というような文をうまく扱えません。ニワトリは鳥であると言う文章なら、「すべてのxについてxがニワトリである時、xは鳥である」と言えるけども、「すべてのxがニワトリである時、xは二羽いる」とは言えませんから。この先へ進むには、2階以上の述語論理が必要になってくるらしいのだけど、そういう方法で数を扱うプログラムは、うまくいっていない。(と言うとちょっと違う、のかな)それは、もしかして当たり前の結末だったのでは、とか思います。自然数という考え自体が、少しおかしなものだったのではないかと、思うのです。ニワトリが2羽いるなんて、各ニワトリ個体を抽象化したニワトリ概念がなければ、あり得ないことだから。抽象化するという作業は、人間の領分であり、その先に自然数がある。特徴を抽出してカテゴライズする機能が、知性の根っこにあるのだとすれば、それは、アルゴリズミックには表現できないもののはずなのです。計算機による知性へのアプローチは、だから、人間脳の数値的な再現にならざるを得なくて、それは宇宙が今現在実行していることの焼き直しでしかない、わけで。そういうわけで、知性とか意識を、計算という観点から単純化して理解することは、難しいのではないかなあというのが、最近の思うところです。
 
 人工知性を作れるなら、心の仕組みなんて単純に分かるだろうと考えていたのだけどな。難しいです。せめて、知れないことくらいは示したい。それが僕の、最終的な願いということになりそうです。
 そのために僕は、どういう方面へ進んでゆくべきなのだろうか。あう、よくわからなくなってきたぞ。頑張らなきゃ、なあ。
 にゃんにゃん。