Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

言い訳マトリョーシカ

 日記を書くという名目で己の思索を外に向けて表明する、それは良い。けれども、最近の僕は、書く文章があまりに見世物っぽくなってしまった。美しい醜さ、可愛らしい怠惰さ、そんなものを組み上げてみて悦に入るのが目的ではなかったはずだ。言い訳の才覚ばかりを増長させるようでは本末転倒であり、内実を欠く。カッコよく見えなくても、美しく纏まっていなくても、日々の雑念の煌めきを、明瞭で素直な文章に載せて積み重ねてゆくこと。それが僕の目指すところであり、そうでなければならないのである。
 ところで、この文章そのものが、上記の僕の悪しき性癖の産物でないと、僕に証明することは出来ない。表明されるものの裏には何らかの意図があるだろうというのは当然の帰結であり、それは文章の内容と不可分なのだから、どんな邪推であろうと一応のそれらしさを得る。
 けれども、僕がひたむきに書き続けてゆけば、そうでないことは自ずと示されるだろう。(もしくはそうであることが。)僕の生の有限具合と、飽きっぽさをその根拠に添えておく。