Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1201,1202

 サークルの定期演奏会へ。個人的には割と今後の課題の散見された演奏会だったけども、楽しかったです。歌うこと、良い。内容については、僕がなにか書いたところでたいてい的外れに終わると思うので省略。
 忘れ物を大量にした演奏会でした。荷物の移動時に上着を置いてきたり、立ち位置判別用のテープをふとした間に紛失したり、その他いろんな物をうっかり置き忘れては取りに帰るということをやっていました。頑張って人の話を聞くことにエネルギィを使うと、まるで収支を合わせるかのように、他の部分で集中力が途切れるらしいです。律儀。
 僕は何かを習得した上で、それを完璧にこなせるようになるまで練習する、という事が出来ないようです。勉強にせよ、バイオリンにせよそうだったけど、とりあえず理解する、とりあえず弾けるようになる、ということはすんなり出来るのだけど、それを体に染み込ませることや、どんな状況かでも一定のパフォーマンスを発揮できるよう練習をすることが、なかなかうまくゆかないのです。目的とするところの設定が上手くいっていないのかなあとか思います。あまりに自己満足的なのが良くないのか。
 例えばある曲をバイオリンで弾きたいと思った時、楽譜ありでも自分なりに満足のゆく演奏が出来たなら、そこで僕は練習することをやめてしまう。暗譜して、人前で弾けるよう準備しようとは思わない。まあそれはそこが僕のゴールだからということになるのでしょうが、問題なのは、だからといって発表会を目的として練習したところで、暗譜まではするのだけど本番でうまく演れるほどのレベルには達しないことなのです。結局、本番を的確に想定することが出来ていないわけで、そこはなにがしかの方法で克服しないと、試験にせよサークルにせよ、もったいない失敗を繰り返すことになる。東大生、音ゲー得意な人多いもんな、とか。

 定期演奏会終了後はレセプションで関係者をもてなして(もてなすとかもてなされるとか、あんまり好きではないです)、本郷の方で泊まりがけの打ち上げ。良くない酔い方をしたせいか(疲れている時に飲むと毎回そうなる)、そこで行われるスピーチや企画が、頑張れる人、本気になれる人への僕の劣等感を加速させます。どうして僕はこうも不感症みたくなってしまったのか。昔はもっと繊細で、心の豊かな人間だったはずなのだけど。(思い出補正?)

 体調が良くなかったので、早朝帰宅してしばらく眠りました。
 
 明日までにALESSの実験をやらねばならないのですが、なんやかんややっているうちに手を付けること無くこの時間です。これはもうダメかもわからんね。そもそも実験のテーマを明らかに間違えているのだけど、今更どうしようもない。明日は言い訳に徹して(最近英語での言い訳がすらすら出てきます。これはこれで英語教育としてありなのではとか)、来週までに何とかするか。でもなあ、それだと多分だらけてしまうしな。うん。今から頑張ろう。なんとかなる、はず。

 
 僕は、好きに僕から距離を置くことのできる相手としか、不安なく交友出来ないのではないかと思ったりします。もちろん嫌われる不安というのは存在するのだけど、それとこれとは次元の違うお話であり。
 
 行動には移れないがやる気はあるのだと、言葉として表明することで、なんとか世間との繋がりを保っている。しかしそれは、記号操作の連なりとして実現可能な活動であり、意志などといった人間らしさの含むものではない。つまるところ、僕の倫理機能は、ただ単に自己の生存の戦略としてのみ、人類に対する懺悔を吐いてみせているに過ぎない。
 僕の本心が戦略として偽造されていることを、僕は”理屈として”知っている。
 "この"かなしさや申し訳なさが、どこまでも僕の本心でありながら、完膚なきまでに作りものであることは、自明なのである。
 一員であることの虚しさ。僕は宇宙を漂う一つの思考機械でありたかった。

 何かを言葉にするために、意図したことを意味するために採用した理屈の一部に、自分の準ずる理念に反する部分を見つけ、それを否定するために追加した注釈がまた、自分の理念に反逆している、というような堂々巡りを三度ほど続けて、何をやっているのだ僕はと沈黙する。
 自己分析の先に自ずと訪れるであろう膠着へ向かって邁進する。冗長性は戦力にならない。逐次生成される論理構造のみがその先を切り開く。それは一般に、沈黙の形態を取る。