Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

ねむねむにゃんこ意識の話

 私的言語について。自分しか知らない記号と感覚の対応があるとして、その感覚を常にその記号で表現する事は、その感覚がその感覚であると同定する仕方があって初めて成り立つのであり、しかしその同定が正しいことはまた同じ仕方によって信じられているのみである。(何を言っているのかわからない)つまり、語の意味とはその使用によって(すべての外部に存在する何者かに対して(だってそうでなきゃならない(はず)))定められるのであり、私しか知らない語の用法というものは意味の伴わない空転する歯車である、という理解で良いのかしら。よくわかりません。言語の哲学について、問題を共有できていないきらいがあります。
 たとえ僕が言葉を知らなかったとして、僕に対して"僕"が宿っているのなら、それは自意識の問題であるはずなのです。それを問う方法があるかは知りませんが、この僕という視点はどこにあっても良かったのでは、とか。僕に論理という機能がなくたって。
 ところで、これだけたくさんの人間がいる中でどうしてこの人間(僕)が僕なのだろう、という問題があるわけですが、ここで、僕以外の人間を、僕である可能性のあったものと言うのは無理がある気がします。知性を世界から独立して捉えること、そんな簡単に認められて良いはずがない。僕でありえたものは無限の組み合わせのうちに存在し、しかし自分はこの人間生物の上で一つ立ち上がっているように思われる。それが脳の自己参照の仕方によるのではないかというのは僕の最近の考えですけども、本当にそうかといえばあまり自信はありません。ああそうそう、記憶を共有している二つの意識、互いに互いの所業を無意識の振る舞いと認識するのかね、とか。
 一般的に言われるところの私的な知覚というものが、世界の仕組みとして組み込まれている、というのは何かの点でもっともらしく思われたりします。それを、脳がその仕組によって、個の境界のうちに独立させている(と思い込んでいる)というのが、一つの意識の説明としてあり得るかもしれない。そこにおいては、僕がどうして僕以外ではなかったかという問題が意味を持たなくなり、単純に物理的な知覚や記憶の問題となります。意識が機能(現象)として実行されていることが、そのまま、私が世界から区別されて成り立っていることの解答になりうる。
 問題は、世界の仕組みとして組み込まれた意識、という考えのアレさ加減であり、例えば自然法則は自然法則そのものが形而上にあるなどと考えずとも、世界を作っている最小の単位の外的な振る舞いとして現れてくるものである、それを法則として見るのは人間の勝手であって、当人たちはそんな風に考えてはいないだろう(法則というのは、そうでない振る舞いが前提とされているから(この前の"無い"の話))、という話の延長として、何らかの振る舞いとして記述可能でなければならないのでは、とか考えてみたり。ええと、ええと。

 何を書いているのか分からなくなってきました。難しいことを考えるの、寝る前にすべきことではないです。物想うのは朝が良い。

 僕より賢い人が僕の畑で芋を掘り始めると焦るのですよ、とだけ。天才はまあ、置いておく。