Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

左眼ひくひく

 左目の下瞼がひくひくとしています。ここ一週間ほどのことです。誰が頼んだわけでもないのに、時折ぴくんと引き攣って、自らの存在を主張しています。もしかして、僕が以前頼んでそのことを忘れている、という可能性もあり得ないわけではないと思い、やめるようお願いしてはみたのですが、止まる様子も見られないので、僕ではない誰かが僕の下瞼に指示した上でその指示を取り消せないよう多重にロックを掛けたか、下瞼が己の意志で震えだしたかのどちらかだと思います。ちなみに、僕はロクヨンで後者だと踏んでいるのですが、何らかの根拠があるわけでもなく、ただの直感にすぎないので実際のところはどうだかわかりません。(確率はごく低いですが)その他の要因(宇宙の構造の変化などが筆頭として挙げられますね)であるかもしれません。
 ところでこの瞼の引き攣り、特に気に触ることもないので、あってもなくても構わないものとして僕の中に位置づけられているのですが、あってもなくてもよいもの概念の存在には多少得体のしれないものを感じます。当たり前に受け入れているものの、それが存在する必然性がない、けれど存在しない必要もなかったものの位置づけというのは、少々奇妙な構造をしているように思われるのです。
 具体的な(ついでに普遍的な)例について考えてみましょう。例えば、みなさんは唐突ににゃんにゃん言いたくなることがあるに違いないと思います。これは人類の遺伝子に刻まれた進化の歴史、その一角を占めるネコ科の本能が発現しているわけですが、このにゃんにゃん鳴くことは、必ずしも我々の生存性の向上には寄与しない。つまり、にゃんにゃん鳴かない人間というものを(可能性としては)考えることが出来るわけです。ここで、彼らにゃんにゃん鳴かない人間にとっては、にゃんにゃん鳴くことは、どうでも良い問題であるはずです。私たちはにゃんにゃん鳴かないが、鳴いてみたところで損はしない、程度のものでしかない。ここで、にゃんにゃん鳴かない人達が、にゃんにゃん鳴くことを強制されることを考えてください。彼らは損はしないし、得もしない。慣れてゆけば、ほとんど気にすることもなく、時折にゃんにゃんと鳴く事になるだろう。そういう状況を考えてみて、なんとなく、気持ち悪さを感じないだろうか。受け入れて、受け入れたことさえ忘れてしまえば、プラスにもマイナスにもならないこと。そういうものを私たちはいくつ抱えて生きているのだろうかと、ふと薄気味悪くなったりしないだろうか。
 そんなことを考えさせてくれた左目のひくひくでした。にゃんにゃん。