Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

めもめもにゃんこ0112_2

 どうもうまい具合に文章をひねり出せません。ということの言い訳を核として素敵な文章を書こうと必死になっている自分がいます。どうせ爆死してさらに悲しくなるからやめればいいのにと思うのだけど、僕は何かができなくなることに対して敏感であるから、出来ないわけではないことを示さずにはいられない。その逆に、頑張れば出来そうだと直感すれば試しさえしないこともあって、本当に調子の良い性格をしているなあと呆れるやら感心するやら。ほれ見ろ、これのどこが素敵文章だ。
 自分が心地よいと思う文章の特徴として、語尾が完璧には統一されていないですます調である、ということがあるよう思います。文体の着崩しというのかな?あまりフォーマルなのは面白くなくて、雑すぎるものも読んでいられなくて、そうして、ちょっとは整えようとする気概の見える文章、もしくは、丁寧さの中に遊び心の見える文章に心惹かれる傾向がある。それから、採算度外視な正直さみたいなもの?筆者が、言ってしまえばダメ人間と評されるような人物であろうと、その人物の視点、考え方に正当性があれば、むしろその率直さが心地良い、みたいな。僕は私小説が好きなのだろうなと、あまり読んだことはないけれど思う。太宰くらいだっけな。
 ただ、そういう文章の心地よさは、作者の魅力に寄るところが大きすぎて、屑だけどつまらない僕が書いたところで、率直であろうと欺瞞に満ちたものになるだろうと思います。というか実際にそうなっている。
 あまりに伝えたいことを読み手の技量に任せすぎているのでしょう。昔の自分のpostとか日記とか読んでいて、何言ってるんだこいつとなることが多々あるの、大丈夫なのかしらと思う。それらのpostが、確かな理解のもとにふぁぼられているよう思われたりすると、すごいぞこの人僕以上に僕のことわかってるじゃん代わりに僕やれよという気分になるわけですけど、しかしまあそれを言えたのは僕だからなのだと思い込んでなんとか人生を放り投げずにいるような状態。かつて考えた、という点で過去をないがしろにし過ぎである、と言えるのかなあ、とか。大事に生きなきゃ、大事に。
 あと、もう少しイベントの挿入とそれに対する短い感想、というスタンスを維持することで、僕の数少ない感嘆表現の枯渇を防げるのかな、とかとか。時系列というのは多分必要で、僕はそれを代わりに推論過程に対応させてしまうことが多いから、文章のリズムが読み手によってまちまちになるのではなかろうか。読んで心地の良い論説というものは、文体的に見ればそれほどないので(思考の鋭さとかそういうのはあります)、結局一人称小説的に考えたことをぶら下げてゆくのが良いのかなと思います。
 全然素敵文章にはならなかったけども、いくつか示唆的なものは得られたし、その辺もう少し活かしてゆけたら良いなと思います。ぬんなか。