Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0203

 今日は頭の回らない日。どうしてかやる気がわかなくって、これは良くないと喫茶店まで出てみたのだけど、状況は変わらず。数式を眺めて、数式が書いてあるなあ、以上の感想は出てこないし、もちろん頭に入らないし、問題は解けないし。困ったものです。困りました。

 僕の生活には、こういう何も手につかなくなる時間が一定量あります。一定量どころか、大部分がそうかもしれません。どうしてそうなるのかわからないのだけど、いつの間にかぼーっとただ時間を浪費して、その間危機感とか焦燥感とかの半分くらいはどこかに行ってしまっているのが面白いところです。感覚的には、何かに無我夢中になっている状態に近いのよね。文字通り無我であって、モノ申す僕はどこかへ消えてしまっている。意識的な思考が飛んでしまって、それ故、新しい物が頭に入ってこなくなって、現段階で理解していることの出力に終始する。落書きとか、意味のない計算とか、言葉遊びとか。そうして今日もまた過ぎ去ってゆくわけです。ちゃんちゃん。

 幼い頃の僕の考え方は、たぶんこれに近かったのではと思います。新しい物事というのは、勝手に頭に入ってくるもので、意識的に学ぶものでは決して無くて、僕の仕事のほとんどは、勝手に湧いてくる発想を言葉で修飾することだったような気がします。僕は、高校までの間に、授業を聞いた記憶が無い。聞いてはいるはずなのだけど、きちんと、学んだ記憶がほとんど無いのです。どこまでも受け身に学習していたのでしょう。
 それでも、きちんと授業に出ているならそれで良かったはずなのです。高校に入った途端、授業を微塵も聞かなくなってしまって、そこから何かが崩れてしまった。好きなことと嫌いなことの間の溝が大きくなりすぎたのです。やらねばならないやりたくないことに向き合う方法を、とんと知らずに大学まで来てしまって、大学の放任ぷりに堕落している。こんなはずではなかった。どうにかしなければなりません。
 原因は少しずつ見えてきてきます。今回の事とか、保健センタで話しながら気付いたところとか。それらに、自意識と言葉で対処すること、それが僕の戦いということになります。

 いつも見るところに、メモを書いておくのが良いのかなと思います。人が扱う理屈なんて、言葉を辿れば意味をとることは容易くて、けれども勉強するというからには、そこから本質的な内容を抽出しなければならず、それはおそらく言葉の領分ではない。とは言っても言葉を尽くせばそれだけ中身に近づくのは確かだし、だから言葉未満の演算を行う部分を、僕の意図するものに向けるために、言葉を組み立てるのが上策だろう、と思います。だから、意図しない何かに夢中になってしまっている自分を我に返すためのコードを、どこかに書いておけば、復帰できるのでは無いか、とか。まあ、あまり見込みは無いのだけど、とりあえず。

 自分をうまく扱う方法を確立せねばなりません。このままでは僕は落伍してしまう。それは僕の本意ではないし、そんなことよりなにより、僕は賢くなりたいのだ。僕は僕を、治します、きっと。