過去の日記を総括すれば言うまでも無いことであるが、いざ言葉にしてみると激しく精神を苛むものがある。
ウィトゲンシュタインの日記を読んでいました。彼が文中で繰り返し使用する、「虚栄心」という語に表現される(代表される)気持ちと、僕の動機の根底にあるものが、高い度合いで重なっているように思いました。
私の自己叱責的な考察の中で、それでもやはり自分の欠点を自分で見つめるのは素晴らしいことだ、という感覚を全く抜きにして書かれているものは、ほとんど一つとして無い。
1932年1月12日
私は哲学をする際の自分の思考の動き方にいささかほれ込んでいる。(そして多分私はこの「いささか」という語を省くべきである。)
1931年10月13日
彼の虚栄心は、例えば上の記述から読み取れるように、外に向かうものではない。いや、最終的には外へ向かうからこそ虚栄心と名付けられるのだけど、一度自分を焦点として交差し、それから外へ出てゆくようなものなのです。いつだったかさたやみ氏にTwitterについてその自己言及性を指摘された際、僕が深く同意したのはこの点でした。
身の振り方を再考せねばならないなと思います。