Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0303

 野矢茂樹の「哲学・航海日誌」を読みました。
 野矢先生と言うと、この「論理学」を読んだ影響で論理学の人というイメージを持っていました。また、ウィトゲンシュタインの解説などでもちょくちょくこの名前を目にしており、日本人でありかつ数理論理学に詳しい哲学者であるところの人物が、いったいどのような思索をするのかと気になって、大学の図書館で借りてきたのです。(二冊借りたのだけどもう一冊はまだ手を付けていない)
 それで読んだ印象ですけど、まず感じたのは、非常にきちんとした人だなあ、ということでした。まあこの本が概ね初学者向けであることを考えればそうなっているのは必然なのですけども、論理的な飛躍がほとんど無い。つまらないほど平易に書かれていて、けれどもその内容は一読に値する、というような本はなかなかないのではと思います。
 哲学の発端は、当たり前に思われてきたものの中に問題を発見することにあり(ウィト氏はこれを病気と見做していたみたいだけども)、その問題の共有はほんとうに難しいのです。(意図的に風邪をひくのは案外むずかしい) けれども、野矢氏は適切な具体例と、わかりやすい段階の提示によって、難なくそれを可能にしてしまう。かつて僕が問題に感じていることを友人に説明しようとして(彼は僕なんかよりはるかに頭が良いのに)失敗してしまったことを思い出すと、その技量というものが身に沁みてわかります。(ただし、彼の教師性とは、全力を出し切らないところにもあるように思われる)
 最も僕が面白いと思ったのは、アスペクト知覚と、それを受けての意志についての議論でした。ここの内容は、僕が考えてきたことと非常に近くて、時が経って僕が現在の考えを忘れてしまっても、この本を読めば思い出せる、と思うほどでした。
 まとめてしまうとこうなります。意志というものは、行為と不可分であり、けれども行為があるからと言って意志があったということは直接的には出来ない。それを意図したものが自分であるという認識をもってはじめて成り立つもの、むしろ、そういうものとして意志は逆説的に成立させられているものなのだ、と。
 脳に電極を刺して感情を誘発された被験者は、自分がそのように感じた理由を説明できるそうです。このことを考えれば、先の意志の話は割と良い線をいっているのでは、というのが私見です。それは、集団的な生活を営む種として、必要から生じたものかもしれないなと、思ってみたりします。
 アスペクト盲(永井均は意味盲と読んでいた気がする)についての議論も、なかなか楽しかった。例えばウサギアヒルの反転図形の話。それがウサギに見える、というのはどういうことか。また、それがウサギにもアヒルにも見えないことをアスペクト盲と言い、そういう事態は日常生活においてもしばしば観察される。例えばコーヒを淹れる時、人は手順をすべて意識してやっているだろうか、とか。自分が意識していることを意識していないとき、自己というものはどのように認識されているのか。とか。上手く書けないな、ううむ。

 野矢茂樹氏に会ってみたいなと思いました。僕は、半ば脅迫的にこのようなこと(意識だったり認知だったり)を考えてしまうのだけど、それを"生き方"にしてしまうのには抵抗があって、理一出身のこの人はどういう経緯で今に至っているのか、それを聞けたら、これからの指針になるかもしれない。調べてみると、学習アドバイスだとかなんとか言って、面会してもらえるそうなので、早速明日にでも連絡してみようかなと思います。本当に久しぶりに、東京大学に入ってよかったと思いました。連絡先欄にメールアドレスがなくて、電話番号のみだったから、かなり緊張するのだけど、きっと得るものはあるだろうと思います。あって欲しいな。
 もしかすると、後期教養にゆくという手もあるかも知れない。