Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0707

 明後日英語のプレゼンをしなくてはならなくて、何を喋ろうか迷っています。

 生きることの意味というのは、誰だって一度は考えるテーマだと思う。自分はなんのために生きているのかとか、どうして自分は生まれたのかとか、まっとうに生きていればいつか必ず思い悩むことになるはずだ。
 その例に漏れず、中学生の頃の僕は、意味や価値というのは、外との関わりの中で生まれるものだから、自分や世界が有限であることを根拠に、絶対的な意味は存在しないと考えていた。空を飛んでいる燕を眺めながら、彼らが生きていることになんの意味があるのだろうとふと思い至ったのがきっかけだったのを覚えている。
 もちろんこれは、今思えば、意味という語の一側面について言っているに過ぎない。自分という一人の人間が生きるという事が、その外側との対比の中にどのように位置づけられるか、という点でのみ意味という語を扱っている。自分の生が自分に対してどのような意味合いを持つかという、内的な視点を欠いているのだ。その点で、最近の僕はむしろ、自分の生に意味があるということは、人が生きる上で前提として認めねばならないものだと考えるようになっている。
 そのようなものとして生きる意味について考える上で最も重要なのが、人生の目的だ。目指すべき目的と、その目的に至る道を考えてはじめて、一つの評価関数が生じ、価値や、合理性といったものを考えられるようになる。行く先が決まっていなければ、近道だとか遠回りだとか言うことは出来ないことと同じだ。目的というのは全て自己目的的な構造をしており、それこそが意味が意味たる所以なのだ、という思想だ。
 ところで僕は、人生に目的を見出すことが出来ていない。中学の頃に、人生に意味なんてないからこそ、刹那的な楽しさに身を任せてゆけば良いのだとシニカルに構えてしまったせいかも分からないが、人生をかけられるような大局的な目標というものを立てられずにいる。もちろん、そんなたいそれた目標がなくたって、楽しく生きることは出来る。けれども今自分は、大学という機関に身をおいてしまっていて、日々課題や責務に追われている。物理学を志そうと賢明に学び続ける人がいる横で、なんの目標もなくただ日常を消費してゆく毎日に、僕は疲れてしまった。大学をやめることを考えもするが、やめたところで何かするあてもなく、ただただ思い悩んでいる。何もやりたいことがないが故に、生きる意味を見いだせなくなってしまった人間の、一つの実例だと思って笑ってくれると有り難い。
 そんな僕が言うのもなんだが、いや、そんな僕だから言えることかもしれないが、結局のところ僕は、生きるということは何かを信仰することだと思っている。何を信じたっていい。合理性や他人の意見はここでは力を持たない。何を選んでも良いところで何を選ぶかというのが、あなたの個性なのであり、あなたが見出した世界を測る物差しだ。皆さんが、もう一度自分が何をしたいのか問い、選び、僕と同じような道を辿らずに済むことを祈っている。

 みたいなことを淡々と喋ろうか、とか。黒歴史になりそうだけど。

 扇風機を買いました。ア"ア"ーってやりました。ノスタルジィ。明日は上の文を英訳して、話す練習でもしましょう。自然な英語ってよく分からないので不安です。僕が日本語についてその言回しが適切かどうかを判定する回路と同じ物が、英語についても勉強すれば身につくのかしら。