Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1008

 今日は1限があったので、なんとか七時半に起きて大学へゆきました。認知心理学とか応用して、グループディスカッションなんかを通して学習する方法を学習しよう、みたいな趣旨の授業です。僕は本当に何かを学ぶことが出来ない無能だから、良い機会かもしれないと履修を検討しています。今日の内容については特に真新しいものはなくって、少し期待はずれ(僕は何を期待していたんだ、馬鹿につける薬の発明か)だったけども、今後に期待。僕は人と会話しながら物を理解するのは少し得意らしいから、もしかして自分を複数に分けて自分で議論できるようなったら少し変われるかもなと思ったり。

 The Catcher in the Rye読み終わりました。ホールデンの抱えている無垢さへの拘り(僕はそれを拘りと呼びたい)が僕の理想への拘りと重なって、久々に我がことのように読めた本でした。フィービーの「けっきょく、(ホールデンは)世の中のすべてが気に入らないのよ」という台詞、アントリーニ先生の助言には、僕はホールデンと同様落ち込みましたし、インチキで風格のあるものに対するホールデンの怒り(もしくはこれは羨望でもあったのかもしれないと、"僕は"思います)は、形式的な人間の振る舞いについて僕の感じる胡散臭さに対応して理解されました。(しかし僕は一方では、形式的に成立していることそれ自体に意味を認めてもいる(あるいは意識的に認めたいと思っている)から、その点で僕はホールデンとは違うのだけども、本質的な精神構造は同じなのだ)
 また、僕は彼の変化を嫌う気持ち、不変のものに憧れる気持ちがよく分かるのです。いや、他人の気持ちがわかる、なんて馬鹿馬鹿しいですね。もし僕が彼のような状況に立ったなら、彼と同じようなことを言うだろう、という程度の意味です。例えば、博物館での彼の独白部分。
 "ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたらいちばんいいんだよ。"
 この辺りまで読んでようやく、ミイラ(普遍性の象徴ですね)の下りが伏線だったと気づいたわけだけれども、だから彼にとって子供のまま死んだ弟のアリーはホールデンにとって心の拠り所となっているのだなあ、とか。ホールデンは変化を嫌うのです。子供が大人になることを。僕はそれとは少し違って、僕の知っていた世界が別のものになってしまうことそのものが嫌なのだけども、その変化に対する抵抗の性質(内容はもちろん違うし、そもそもこれは投影されたこじつけかもしれない)に親近感を覚えたのでした。
 という風に、非常に自己を投影して読めた本ではあったのだけど、ブックメータで見た感想では、ホールデンが滅茶苦茶に批判されていて、少し考えさせられました。もし僕がホールデンにある程度であれ似ているのであれば、僕の言説は、似たようなものとして彼ら"インチキな奴ら"(否定的な意味合いは含んでないです)に思われているのではないかと。まあ別にそうであったとして、僕はそんなのどうでもいいのだけど、しかし彼らは人として成熟、つまり社会に適応できているのであり、この世で何かをなそうと思うのならば、特に現代では、僕ももっとインチキに生きねばならないのだろうなと思ったのです。これを書いたサリンジャーだって、そのままホールデンだったわけではない。自身をある程度他者との間に相対化して観察しなければ、こんな話は書けないはずだ。と僕は思うのです。アントリーニが引用したシュテーケルの言葉、"未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。"は、本当にインチキ臭いと僕は思うのだけども、ホールデンのような人間にとって、これが処方箋として機能することもまた確かなのだろうと僕は思います。僕はもっと、惨めったらしく這いずり回るべきなのだ。とはいえ、そんなこと生まれてこの方出来た試しがないのだけど。

 今日は非常に疲れました。こんなことではまた途中から大学へ行かなくなってしまう可能性があるので、自分を休める方法を知らねばなとは思います。昔からそう感じているのだけど、僕の頭は人よりも疲れやすいようなのです。(雑多な思考を抑制する仕組みがうまく働いていないぽい) もう少し自分の手綱を締めねばならないなあ、とか。言うほど簡単だったら苦労しないのだけどさ。