Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 風邪い。カゼイ・シロタ菌というのがありましたね。昔どこかに書いた気もしますが。ラクトバチルス・カゼイシロタ株ヤクルト菌の正式名称です。どうでもいいや。

 昨日も日記を書かずに寝てしまいました。体調が余り優れなかったのです。5限の講義が終わった途端にぐったりとなったのですが、5限の間は元気だったわけで、それはおそらく講義が面白かったからでしょうね。小鳥の歌の研究から人間の言語機能にアプローチしている岡ノ谷一夫先生のお話。なかなか良いキャラクタをお持ちの先生で、講義内容に関係のないところでも楽しかった。TVなどへの露出が高いのもそのせいか、あるいは逆かも知れない。授業の最後に、スライドで見た小鳥の脳と人の脳において、ウェルニッケ野とブローカ野が、鳥の歌の学習を司る部分と似通った位置にあることについて質問をしてみたところ、解説してくれたのですが、やはり脳の機能の分布は、視床下部や、さらに遡れば延髄、脊髄の形、外部からの入力がどの位置から来ているか、等によって決まるため、身体の構造の似通っている脊椎動物の脳も同様に似る、とのことでした。これは、脳の発達は非常に単純な仕組みによって説明できるのではないか、という僕の妄想を後押しするものです。さらに、脳の機能に対し、神経細胞そのものについて質的な差異はあるのか、と訪ねてみたのですが、それはまだ良くわかっていない、とのことでした。分からないことだらけなのだなあ。

 今日は昼ごろに起きました。サークルの練習にゆかねばならなかったのですが、怠くて外に出る元気が湧かなかった。いや、そこまで体調が悪かったわけではないのだけれど、いくつかの要因から外に出たくないという気持ちが一度発生してしまうと、あらゆる理由を盾に僕は引きこもってしまう性質があるのです。これは僕の最もダメな部分だと理解はしているのだけど、それは今客観的に自分を見ているからそう言えるのであって、実際にそのような気分にある自分を制御するのはとても難しい。このように自己抑制が下手なのである、と言ってみたところで、それは自分を要素に還元することで、責任逃れをしているに過ぎず、みっともないことこの上ない。まとめてしまえば、自分はダメな奴なのだ、の一言で済むのだけれども、その言葉は自分が言うか他人が言うかによってその性質は異なってくるわけで、もちろん言い訳として機能するはずがない。自己否定の階層構造は、対外的な自己否定文の意味を剥奪する。不言実行しか無いのです。
 追試の勉強をしていました。これを失敗すると僕は留年するので、何とかせねばなりません。シュレディンガー波動方程式とか、分子軌道法とか、何が何やら分からなかったのですが、一文一文丁寧に読んで見たところ、案外すんなりと理解出来ました。なんというか、重要な概念がさらっと書いてあるものですから、それを見落とすとその先で詰むのです。また、数学的記述をどのように解釈すべきかについての記述が少なく(僕の数学力の低さにもよるのでしょうけど)、具体的なイメージを構成しにくいのも、理解を妨げています。結局のところ自分なりに計算して見るほかなく、やたら時間を食うわけで、一体全体他の学生たちはどうやってこんな時間のかかるものを短期間で勉強して好成績を残してゆくのか訳がわかりません。まあ、過去問を分析すれば、部分的には意味理解を伴わずともそこそこの点は取れそうだったので(僕は出来なかったんだけど)、多分そんな学生も結構いるのでしょう。それもどうかと思うけども、東大のカリキュラムがそもそも詰め込みがちなので、それも仕方のない事なのかもしれない。もっとね、一日に二教科くらいをじっくりゆったりやるという方法でもいいのじゃないのかなあ。少なくとも僕みたいに考えるのが遅い人間には、そっちのほうが有り難いのです。愚痴ってもしょうがないのだけど。