Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 今日は朝早めに起きて(すごいことだよ)、カッコーの巣の上でという映画を見にゆきました。1975年の映画なのですが、新午前十時の映画祭という、週替わりで外国映画50本を映画館で毎日午前10時からフィルム上映する特集上映(Wikipediaより)があって、今週が丁度その映画を上映する週だったのです。僕はそこまでこのカッコーの巣の上でなる映画に興味があったわけではなかったのですが、父が熱心に薦めてくるし、映画館の雰囲気が僕は好きなので、見にゆくことに決めました。値段も500円だしね。あと、アマデウスの監督の作品だということで、きっとよく練られたフィルムなのだろうという安心感もありました。
 電車に乗って、最も近い上映劇場であるところのTOHOシネマズ府中へ。競馬の関係で特急が東府中に止まったりと、若干遅れてしまったのだけど、丁度予告編が終わるところで入場することが出来ました。ちなみに僕は本編と同じくらい予告編を見るのが好きなので、それはそれで残念なのですが。

 カッコーの巣と言うのは精神病院を指す蔑称で(カッコーはクレイジーの隠語であるらしい)、その名の通り精神病院を舞台としています。刑務所での労働に耐えかねて、精神疾患のフリをしてそこから逃れることを画策したマクマーフィーという男が、舞台となる精神病院に連れて来られたところからお話ははじまります。彼はその性格から管理主義的な病院の方針に真っ向から反発し、はじめは戸惑っていた他の入院患者も、いつの間にか彼に賛同するようになってゆく、という筋書きです。詳細な内容はWikipediaなんかを参照してもらえばだいたいわかってしまうと思われるので、ここには書かないことにして、感想のみを残しておこうと思います。

 単純にこの映画を見るのならば、病院の管理(その象徴がラチェット看護婦長です)により自由と人間性を奪われていた患者たちを、マクマーフィーが救済するというような、反体制的な英雄の物語として初めは思われるのですが、考えてみると事態はそれほど単純ではないのです。管理と自由という、あからさまな二項対立ではけしてない。
 まず、マクマーフィーがそれほどまともな人間ではない。何がまともかということについては後で議論するとして、単純に彼の行動を見るならば、衝動的で、ルールに従うことが出来ず、気に入らないことには暴力で対処するなど、素朴な英雄像とは程遠い人物なわけです。一方で、彼は精神病院の他の患者を一個の人格として扱い((お前ら患者たちは)そんなにいかれているのか。街を歩いているバカどもと変わらないだろ。など)、何より人懐っこく、その子供のようなシンプルで情に篤い性格から、他の患者たちから愛されます。彼は社会全体から見るならば迷惑極まりない犯罪者だけれども、あるコミュニティにおいては活気と自由を提供する存在なのです。同じ人間が複数の価値体系から対極の評価を受けることの危うさよ。同様に、体制側の象徴であるラチェット婦長も、ただの倒すべき悪ではない。確かにかなり嫌な人間として描かれてはいるのだけど、彼女の立場を支えているのは、精神異常者や犯罪者など異端を排除せんとする僕達の心理なのであって、ただ彼女を批判したところで、僕らはトカゲのしっぽ切りをして見せているに過ぎない。婦長も彼女なりの、そして社会一般の倫理のもとで行動し、患者たちを出来るだけ早く"まとも"にしてやりたい、幸福にしてやりたいと考えている。(グレートマザー的なキャラクタなのですね)この映画を見た限りでは、どちらが良いとか悪いとか一概に言うことは出来なくて、管理体制側のやり方が、人間本来の性質に対し有害でありうるという程度のことを示唆するに留まっているように、僕は感じました。
 こうやって作中で描かれた2つの人間の在り方を俯瞰すると、この映画の主題は、社会的な自由とはどうあるべきかということなのではないか、という気がしてきます。それは単に僕がその方面に興味を持っているからだというだけのことかもわからないのだけど、とりあえず僕はそのように受け取ったのです。幼稚で欲求に忠実なマクマーフィーと、規則を重んじる"理性的な"人たち。それから、そのどちらにも染まりうる病院の患者。人類社会の発展のためには高度な秩序が必要で、多くの人々はその恩恵をこうむっているわけだけども、しかしそれはなんでもやって良いという意味での自由さを制限する。そしてそれらに馴染むことの出来なかったマクマーフィーは、刑務所や病院に勾留され、最終的にはロボトミー手術を受けて廃人にされてしまう。この作品で勝利したのは、概ね管理者側、僕達の側なのです。現実と同じように。そして廃人になったマクマーフィーを殺し(始末してというのが作品の内容に従えば正しいかしら)、マクマーフィーの意図を継いで病院を脱出するネイティブアメリカンのチーフ。きっと彼は、文明社会と対比されるキャラクタなのでしょう。なんといってもネイティブアメリカンだし。その彼が脱出する様を見て感動する僕や観客たちの様子に、僕は大いなる皮肉と希望を感じ取ったのでした。
 と、こんなことを考えていたのだけれど、見てよかったなと素直に思います。ジャック・ニコルソンの演技も、実際に彼はこういう人間なのではと錯覚してそのすごさを感じない程度にすごかったし、脇役の患者たちもなかなかの好演でした。役への没入度?が桁違いなのです。どんな訓練積んだらああなれるのかしらん。来年の1月には2001年宇宙の旅もやるらしいので、それも見にゆかねば。
 見終わってから、府中の街を散歩しました。前にも書いた気がするけども、知らない街を散歩するのは好きです。少し都心から離れた街の、休日の昼間の気怠さは、なんとなく青春っぽい感じがあります。高校時代を過ごした街の雰囲気がそんなだったから、そのせいかもしれない。また神戸に行きたいなあ。

 夕方はサークル。なぜか知らないけども精神的に充実していて、楽しく練習出来ました。映画見て頭がきちんと動いていたからかな。定演まで時間ないし、あんまり練習にも行ってないので自分なりになんとかしなきゃなあ。