Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

悔しい話

 久々に悔しいなという思いをしている。久々なのは単に僕が向上心とか他人への関心なんかを失ってしまったり、優れた人の優れた思索に対し意図的に諦観の念を抱いてみることで自分をだまくらかしたりといった残念な理由に依るところが大きく、もちろんもはや僕が他者に嫉妬心や羨望を感じる必要が生じないまでに成長を遂げたということなんかでは断じて無い。
 それで、その悔しさの直接的な原因は、記憶にあった論理哲学論考のとある一節が、実際にはどのような文脈で語られていたのかを調べようとGoogleの検索窓を叩いてみて上位に出てきた同年代の人物の書評を見たことであった。それはウィトゲンシュタインの思想を主題として展開されるとある物語の感想だったのだが、明快で含蓄あるその文章に僕は唸らされた。今の僕にはこれを書くことは出来ないなあと。(この、同年代の人間に対してという視点で自己分析をするのは、かなり甘いやり方だと思われるかもしれないが、本当に賢い人々を見ても僕は彼らに負けても良い理由を見出してしまうから、少なくとも僕としては、自分より少し先をゆく人々を見るのが丁度良いと思っている。)
 まずはじめに僕をぶん殴ってきたのは、そこから読み取れる筆者のウィトゲンシュタイン哲学に関する造詣の深さであった。彼は他人の哲学を、その問題意識ごと理解する能力を持っているようだった。というのも、その書評の掲載されていたブログの他の記事は、また全く別の文脈の上に構築された論説だったからだ。これは今の僕に徹底的に欠けている力で、言ってしまえば学力の低さそのものとして現れている何かだ。僕は自分が問題としていることについて他人の論理を借りてくることは出来る。自分の思考を補強する、あるいはそれで良いのだと安心するための材料として、偉人の論理を援用することは多い。そんなことするくらいなら自分なりの言葉で何か言ってみたらどうなのかと僕自身思っているのだが、なかなか辞められるものではない。何より楽だし。それに対して、彼や、高校時代に僕に程度の差を見せつけてくれた連中は、一つの思想を、それが成立する契機となった問題を共有することで把握することが出来るようだった。このような解くべき問題があり、その解決のためにこのような手法が取られたという流れを知識として持っており、その思想を、対象を分析する際に用いる基本的枠組みとして取り入れるということを、自然にやってみせるのだった。そのように論説の舞台を立ち上げてしまえば、分析対象を構成している諸要素を、その枠組の構造に対応して理解することが可能となる。この小説で問題とされているこれこれは、この思想におけるこの問題と本質的に繋がっており、その問題の解決にはこれこれといった手法が取られたというように。
 僕は未だに、どうすればこのような問題解決の仕方が使えるのか分かっていない。書物を読んで、そこに広がっている思想のアイディアを、応用可能な道具として頭のなかに整理しておくということが微塵もできない。僕に出来るのは、妄想のきっかけを得ることだけだ。数学にせよ哲学にせよあらゆる方面でその傾向がある。思いて学ばざるはなんとやら。
 このような、体系的な思想の理解の能力の歴然とした差に次いで、それによって浮き彫りになった構造を切ってゆくその手腕。自ら導入した切り口をもとに、さまざまな引用などをはさみつつ、予め用意した着地点へと論理を展開し修練させてゆく力。これもまた僕の文章に決定的に欠けているもので、何を隠そうこの文章だって行き当たりばったりで書かれ続けている。やり場のない羨望を強引にこねくって。
 他にもまあ彼にできて僕にできていないことは沢山あって、予想される道のりの遠さ険しさに暗澹たる気持ちになるのだが、そろそろ寝なければただでさえつらい明日の講義がよりつらくなること間違いないので、この辺で切り上げておく。とりあえず今回取り上げた、文章の構造的な理解の能力は、何が何でも向上させねばなるまい。手っ取り早く、何か本の感想を書いてみるのが良いだろう。知識の理解とその使用、両方の側面から訓練することが出来るはずだ。頑張れば僕にも出来そうだ、で満足することは、流石にもうやめなくちゃならない。