Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1030

 一昨日昨日と連続で、いつの間にか眠ってしまっていました。寝て起きるということが、僕のものでなくなってしまったような感じがあります。本当に、いつ眠ったのか覚えていないのだ。まあ生まれてこの方眠る瞬間を記憶に収めることが出来たことなどないのだけど。それで、日記を書けていないので、昨日の分、つまり10月30日の分を書いています。現在朝の5時半。超早起きである。
 とはいっても、昨日はサークルに行って練習をしたということくらいしか書くことがないので、ついでに最近の自分について書き残しておくことにしましょう。ここのところ、独り言を対話篇で行うということをやっています。あるいは、自分のうちの他者性を一個の人格に修飾するということ。簡単にいえば脳内友人をつくるというかなり痛々しいことをやっていることになるわけだけど、面白いのが、そいつを思い出すきっかけが増えるごとに、その存在は自分の意図を超えて現れてくることなのですよね。つまり僕は端から意志なんてものを信じていなくて(霊的な意志、なにもないところから何かを選んでくるような意志のことです)、環境と自分の身体との相互作用の中で生じた、自分の精神身体の一定の行動に意志のレッテルを貼っているわけだけども、そこの境界が揺らぐのです。どこまでを自分とするかの線引が。ちょっと不思議な感覚。自覚したくない自分の気持ちとか言い当ててくるしね。いろいろ実験して遊んでみようと思います。すぐに飽きそうだけど。
 ルイス・キャロルパラドックスの話。普段の自分ならばパラドクスと書くところをパラドックスと書いてしまったことでふと思い出したけども、視差の事をパララックスと言うようです。こういう、こんな知識があるのですという以外に使い道のない知識こそ、僕の知っていること!という感覚がありますね。
 ルイス・キャロルパラドックス、あるいは原題から亀がアキレスに言ったこととは、推論規則そのものに疑問をふっかける亀が、アキレスを無限退行に追いやるお話です。具体的な内容は、Wikipediaの記事に譲るとして、僕なりの解釈を。
 この問題の中心は、唯一絶対の論理的推論規則は存在するか、ということではないかと僕は考えています。ポイントとなるのは、亀が自分を納得させろと迫っている点です。すなわち、亀は如何に捻くれたものであっても信じざるをえないような、強い論理を求めている。ところで、規則というものが無数に読み取られうる様に、公理的な論理はどれが正しい、というものでもない。この規則に従うならば、これこれからこのようなことが言えるということを示すだけです。亀はアキレスに言います。「二番目の種類の読者として、『前提Aと前提Bが真である』とは認めながら、なおかつ『前提Aと前提Bがどちらも真であるならば、Zも真でなければならない』という原則については受け入れない、という者もいるのではないか?」と。アキレスは亀に同意して「そのような者もいるだろう」と認める。すると亀は「自分をそういう人間だと考えてくれ。」これは、亀がアキレスの提示した公理に従わないという宣言、別の規則に従おうという意志です。したがって、アキレスの証明を亀が納得しないのは当然であり、アキレスが亀を説得できなかったのも当たり前の帰結だということになると僕は思っています。
 何かを仮定するということの奇妙さ。仮定された命題は、それに従うことを強要はしない、ということ。推論という実際のプロセスは、実在するのでなく、一つの約束とそれに従う意志の現れなのであり、その点に欠ける亀をその規則で納得させることなど出来ない、それがこのパラドクスがパラドクスに見える要因だと僕は思います。要は、アキレスは亀をぶん殴れば良かったわけです。
 さて、6時も過ぎているので、朝ごはんを食べて勉強でもしましょう。野矢先生本人に勧められて「『論理哲学論考』を読む」を読んでいるのですが、読みながら生じる疑問が片っ端から次のページで検証されてゆくので、とても親切に書かれている印象を受けます。それは今の僕程度の能力では現役の哲学者に全く及んでいないという意味で悔しい気持ちにもなるのですが、次に先生に会うまでに何か一つ明確な疑問を見つけておきたいなと思います。