Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

賢くなるための覚え書き

 1932年に測定された知能指数の平均得点を100とすれば1990年のそれが120となるように、人間の知的能力は環境との相関が強い、ように思われる。それで、単純に知能の底上げをしようと思うのならば、生活環境を高い知的能力を必要とするよう変えてしまえば良いのでは、という発想が自然に出てくるわけだけども、さてそれをどうやるかというのが問題である。先に述べた知能の向上については学校教育が行き渡ったり、目にする情報量が増えたりといった原因があるのだろうと考えられるのだけど、僕が望む程の短期間では、それほど大きな外界への変化は望めないわけだから、最も身近な環境であるところの習慣とか癖とかを変えてしまうのが良いように思う。それで、日々なにをやるかなのだけど、僕は、それが努力を必要とする類のものであってはならないのではないか、と思っている。というのも、それでは長続きしないというのももちろんあるのだが、まずそのような知的課題ではフィードバックを得るまでの過程が迂遠だからというのが理由だ。例えば日替わりでキー配置の変わるキーボードを使って適応能力の強化を図るとして、その課題が出来る/出来ないの判断を行うのは、かなり上位の認知機能である。もしそのような課題で能力の向上が見られたとするならば、出来ないことへの悔しさとか成功報酬がある種の条件付けを行って、それに引きづられる形で各種の要素的な情報処理過程が洗練されたということだろう。サッカーをすることで筋肉がつくということはままあるけども、(あらゆる種類の)筋肉をつけるためにサッカーをするというのは、少し違う気がするのだ。そんなわけで、もっと低いレベル、より具体的な身体的行動のレベルで何か変えたほうが良いのではないか、というのが今のところの僕の考えだ。重要なのは、それが出来ていない事を自覚できない類の何かをすること。つまりピアノの弾き方を知らないからピアノが弾けない、という状況よりも、周囲の景色の変化が速すぎてそこに何があるか見えない、という状況のほうが、脳は本質的な危機として理解しやすいのではないかということだ。より単純な次元の情報処理において問題がある方が、シンプルな神経細胞にとっても対策が練りやすいのではないかと、これはちょっと擬人化し過ぎかもだけど、考えている。具体例については考え中。