Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1230

父方の親戚の中学生の子の成績が振るわないらしく、僕の人生観を聞かせてやってくれとか言われて(僕はこれでも故郷では勉強ができる人だったのです。かなしみ)、いや全く役に立たないだろと思いつつ、祖父母邸にゆきました。
それで、その子とそのお父さんとお話。そのお父さんというのが、僕はほとんど初めて話をしたのですが(お父さんの方は、僕が子供の頃作った工作を見て、年齢に対し高かった技能を覚えていてくれたようです)、とある誰もが知ってる超でかい会社の社内教育部門を担ってるようなすごい人で、めちゃくちゃ賢かった。いろんなことを知っていて、しかもよく考えているなあというのが分かります。その子の教育についても、あまり心配していないようでした。彼自身は鉄道に対する強い興味があって、そういう子供は、何かきっかけがあれば化けるのだとか。僕もそう思うな。不安がっているのはやっぱり母親の方らしい。母という生き物はいつもそうです、表面的で社会的な価値に重きをおきがちなのだ。それはある程度は大事なことなのだろうけど。
結局、適当なことをいろいろ話していました。学ぶということ、学校のこと。最終的に全てを決めるのは、そいつのモチベーションなのだ、とか。僕にはそれがない。僕は何がしたいのか。結局、考えさせられたのは(思い出させられたのは)僕の方だったようです。僕の父(好きなことしか喋らない)の乱入でぐだぐたに終わってしまったけども、今回のお話で各者何か得るものがあったならそれは良いことだなと思います。

祖父母は相変わらずでした。祖母は相変わらず声が大きいし、祖父はブラウザの設定が変わってしまって見にくいからとwindowsを再インストールしていました。相変わらず変化が嫌いなようです。漫画のキャラクタかよ。

夜は家で手巻き寿司を食べました。それから、年賀状のデザイン。動物を描くのは楽しいです。カッコよい馬が描けたように思うけども、馬から見ればバランスとかぐちゃぐちゃなのだろうな。そういう意味では、宇宙人が地球人描いたらどんなふうになるのだろう。特徴というものの恣意的な性質について。