Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 昨夜寝る前に今日AtCoderでcode thanks festivalなるものが開催されることを知ったので参加してみました。昼過ぎに起きたので一時間遅れの参戦だったのですが、それを差し引いても残念な結果でした。半分しかできなかった。算数的な問題は算数的に解けるのですが、網羅的に解かねばならない問題(つまりプログラムが本領を発揮するものです)は知識不足でなかなかうまくコードに落としこむことができません。ううむ。もう少し勉強してから再挑戦しましょう。

 知能の心理学を読み終えました。知能というのは全体の枠組みを前提としているのだが、しかしこの枠組は同時に発達とともに獲得するものでもあるのだ、みたいな内容。結局ここで言われている群性体というのは知能というよりも言語能力のことで、認知能力全般とは区別されているから、人間の認知能力を統一的に扱えていないんじゃないのとも思うのですが、それは問題設定の問題でしょう。それを含めて認知能力の一般的性質を明らかにするためには多分神経ネットワークそのものを解きほぐすしかないだろうし、それは正しくはあったも有用ではないかもしれない。実際本書が想定しているレイヤーにおける知能の説明としてはピアジェのそれはかなり見事で、頭の良い人もいるもんだなあとなります。僕自身が内観から得た知能についての洞察も、まだまだ粗いようです。もっといろんな実験を自分自身についてやってみなくちゃならない。僕は自分自身のことを正確に知っていたいと望んでいます。

 タイピングが少し早くなりました。ときどき思い出したように熱中してしまうのですが(とはいえ30分くらいです)、その成果がじんわりと出ているらしい。進歩が可視化されるのは心地よいですね。僕は自分の学習達成度合いを把握するのがあんまり得意ではなくて、それゆえ出来るようになる喜びみたいなものとは縁の薄い生活を送っています。できることは自然とできるし、できないことはできない、という認識です。だから工作とかゲームプログラムとか、目に見える形で上達がわかるものにハマりやすい傾向があります。もっとこう、進捗の可視化を上手に出来るようになればいろんなことにはまれるようなるのかもしれません。というわけで勉強ブログを作ってはみたのだけれど、ブログの形式はあんまりそういうのに向いてないぽい。専用のノートを作ってみようかな。出来るようになったことを書き連ねるノート。ていねいにやればだいじょうぶだよ。


 精神分析みたいなものが学問として成立していることが割と疑問だったのですが(だって脳みそはもっと複雑なはずです)、あれは結局、人が自分の精神について語る仕方を分析するものなのかな、ということで納得しました。つまり人の自己言及の仕方はわりと似通っていて、だからこそそこに体系的な学問が成立しうるのだ、という理解です。そしてその本質は言語の普遍性にある。この前てきとうに書いた内観の危険性とそれへの対策の学問みたいな感じですかね。自分や世界について語るときはこういう文法を使いましょう。ということです。原始仏教なんかが「判断をやめろ、ありのままを見ろ」と言っているのもだいたいこの辺と関係しているのでしょう。言語はおそらくヒューマナイズされた現実の一部であって、言語的な体験も他の体験と同じかそれ以上に影響を与えてゆくのです。同時に、言語の使い方は訓練によって変えてゆくことが出来る。そこに付け入る隙がある、という考えなのでしょう。心理学者各位がどの程度それについて自覚的かは知らないけれど。