Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 朝起きてPylearn2のチュートリアルを読んでいたらようやくモデルの作り方が腑に落ちました。というか必要なことは全部コードの中にコメントとして書かれていた。しかしこれまではそれがいったい何を意味しているのかちっともわかっていなかったので、金曜の計算数学でTA氏に懇切丁寧に教わったことでようやく頭のなかで整理されたのでしょう。理解が遅くて申し訳ない感じがある。
 Twitterの賢い人達がごりごりと学習を進めているのを脇で見ていると、自分は本当に些細な問題の把握に手間取っているのだなあとかなしくなることがあります。そしてそんな些細な問題を解決しては喜んでいる自分が、より一層愚かで惨めな存在であるかのように思われてくる。頭の悪い人が頑張っている、というような認識はされたくない。まあそもそも書かなければ良いよねという話ではあるのだけれど、自分の達成を誰かに知ってもらいたい気持ちもやっぱりどうしてある。その辺が、今のところの僕の限界ということになるのでしょう。超克してゆかねばね。

 チケット交換でユマニテの演奏を聞きにゆきました。非常に上手な合唱団なのですが、選曲がその能力に見合っていないというか、力を持て余している感じがあって残念でした。もっとひねくれた曲をやるだけの技量が十分にあると思うのですけどね。あと、主語の大きな詩ってたいがい中途半端な(優等生的)イデオロギーみたいなものを感じてしらけます。「僕ら」とか出てくるともうダメ。もちろん例外はありますけど。

 夜はTwitterの人に誘われて忘年会に行っていました。知らない人ばかりで、特に忘れるべきものもない感じでしたが結構楽しかったです。ある程度のアカウントの規模を維持しているとそれなりに声が掛かるのでときどきコミュニケイションを摂取するぶんには調度よいですね。ほとんど初対面みたいな人達と意見交換することは自分の考えを整理し直すきっかけになるし、独断に陥るのを防いでもくれる。たとえ世界にひとりぼっちであってもそうならないだけの知性は維持していたいですけれども、まあ僕自身小さなオートマトンにすぎないので限界はある。人間はまるで考えているかのように風に揺れる葦である。こういうこと言ってしまうと世界だってそうなんだし結局全ては運だよね、ということになるわけだけれど、まあそれと自分の意志とが成立するレイヤーとの折り合いは適当につけておくことにして。