Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0227

 僕は道具立てとして何かを学ぶということが全然出来ないのですね。それ自体が目的でなくては、学ぶ気力が続かない。だから、数学にせよ記号論理にせよ、自分の世界の解像度を上げたいという目的の付随物であると見做しているうちは、より単純で容易な(ように思われる)方法に流れては時間をムダにするのでしょう。真の目的のほうを実践することで、必要な能力を引っ張り上げるということが出来た時代もあったのだけど、高望みが増してゆくにしたがってそれも不可能になってしまった。いくつかの基礎的な教科書のみ与えられて、何もない部屋に監禁されたい欲求が高まります。流石に非現実的ではあるけど、せめてより近くを見られるようにならねばなりません。インターネットから離れるべきかもしれない。あそこには、優れた人たちがたくさんいて、焦ってしまうから。どうでもいいけど、先の文で「僕より優れた人たちが」と書きかけて消しました。比較可能な段階にすら登っていない。勉強しなきゃ。
 サークルのボイトレ。2月のボイトレは前半の方で済ませてしまったので、ボイトレ担当の僕は事務的な事をするだけで後は見ているだけでした。僕も参加した体操を除いて、2時間見ているのは退屈です。他人に自分を移入して考えることは苦手だし。(人の動きを真似ることとか壊滅的に下手です)その間にちょっと考え事をしていて思ったのですが、こういう仕事に関して、どうすればよりうまく出来るかということを考えたことが僕には全くないのですね。興味の向かない(一般に仕事とか役目に対して僕はあまり興味を持つことがありません)物事について思考するという発想がないのです。興味のないことについて冷淡だと言われることが多いけども、これはむしろ冷淡さ以前の問題なのではないかと思います。僕はもっと、考えたくないことについても考えるということをしたほうが良い。このままではただの馬鹿である。
 ちょっと自由意志に関連した冗談を書くために考え事をしていたところ、これは実在論等と関連が深いのではないかと思い始め、突如科学哲学の本を5冊ほど借りてきました。とりあえず簡単な入門として勧められていた戸田山先生(ワクだ。)の「科学的思考」のレッスンなる本を読んでみたのですが、全体的に「まあそうだよね」というような内容であんまり面白くはなかった。ただ僕にこれが書けるかと言われればそんなことは全くないので、むしろこのように説明をするために僕はどう考えれば良いのか、という点で役に立ったように思います。というようなことは新書を読むと毎回思っている気がするのですが、全然実践されたことはない。自分でも何か書いてみるべきなんでしょうね。そういえばこの前ちょっと内田樹の本を立ち読みした際に、意図的にアカデミックな文章を書くことは、日常的にはなかなか使わない語彙を動員することになって言語野の整理に良いという話が載っていて、確かにな〜と感じたのを思い出しました。ああ、それでこの日記も時々文体を変えてゆこうとか画策していたのだった。完全に忘れていました。明日はそれでゆきましょう。他にもポパーの本とか知の欺瞞とか借りてきたんですが、今の僕が読んできちんと身になるかわかりません。(本をきちんと読むと体表にキチン質が形成される)せめて一割でも咀嚼できるよう頑張りましょう。