Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0811

 サークルの合宿から帰ってきました。いろいろ書きたいことはあるけれどもとりあえず体調が悪いです。思った以上に北軽井沢は涼しくて微妙にひいていた風邪を悪化させてしまったらしい。
 僕は自分だけの時間を取れないことに弱くって、だから合宿など参加するとその度にそれを後悔していたものだけど、最近あまりそうでもなくなってきています。何が何でも集団に合わせねばという強迫観念が薄れて、必要なときには一人になれるようなってきたような感じがあるのです。あんまり気負わなくなったというか。同時に、昔のように、ひたすらおどけてみせるようなコミュニケイションの取り方もしなくなりつつあります。あるいはそうせねばならないという妄執が薄れてきているのです。そういう意味では、つまらない人間になりつつあるのかもしれません。僕と同じような対人様式を持ちつつ、エンターテイメントに徹することのできている先輩を見て、少し悲しく悔しい気持ちになったりもします。でもまあ、僕はそうやって生きてゆくには元気と頭の回転の速さが足らなかった。少なくとも、今は足らなくなっている。それならば、もう少し地に足の着いた人付き合いの仕方をしてゆくのが得策だろうと思います。考えてみれば、僕はこれまでに人付き合いで困ったことはあまりないのです。確かに、責任をもって勤めを果たすということは苦手だし(高校の時に自覚しました)、コミュニケイションをコミュニケイションとして楽しむこともあまり得意ではありません。うまく関係を維持できないことが多々あります。いろんな人に呆れられているだろうと思うし、必要とされてもいません。しかしそれは、僕自身があまり他者を必要としていないということの裏返しでもあるのだと思います。また、他者から明確に迫害を受けていると感じたことがないことも関係しているのでしょう。結局僕がこうやって生きてきた動機は、自分がどうであるか、うまくやれているかという関心のみに端を発していて、そういう意味で自分は面白くあらねばならないと思っていたのです。そしてそれは別段、コミュニケイションを志向したものではない。結局自分は、ずっと一人遊びをしていたのだと思います。その遊びのうちで、コミュニケイションその他はただの点数を稼ぐ手段に過ぎなかった。人の顔を覚えられないなんて僕は嘯いてきたけれど、覚える気がなかっただけなのです。覚える気にすらなれなかったという点では覚えられないと言っても間違いではないのだろうけれども。そういうことをなんとなく自覚した5日間でした。
 まあそうはいっても、僕にだって興味のある人達が少しはいます。小説とか哲学に興味があるというのと似たような意味での興味なのかもしれないけれども。そしてやはりそれらから拒絶されるのは、自分の敗北のようで嫌な気持ちになります。
 あちらがわから僕を拒絶すること。その点で、僕の中においても、人を含め知性体というものは特殊かもしれないと最近思っています。つまり、他人には心があって、このことは他人も思考しているというのとはまた別の意味を持っている、ということを理解しつつあるということです。自意識を他者に分有してみる視点を手に入れつつあるということも出来ます。もちろん、実際的にはそれで何かが変わるわけではありません。しかしこのように、人と人との関係という特殊な枠組みを、自分と外界の関係の中に導入してみることは、僕の人生を部分的に治療することになるのではないかと思います。このことと、僕が愛している、とことんひとりよがりで独我論的な視点とを両立させるのは不可能かもしれないけれど。

 いろいろ書いてみたけれども全部嘘っぽいです。適当な自分像をつくり上げる能力ばかり向上している気がする。こう書いとけば面白がってもらえるだろ、という思惑があけすけで気持ちが悪い。ありのままを見なければ。しかしそんなことが可能だろうか。それはつまり、何も見ないことではないか。