Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0824

 今日は僕がサークルの練習ブログ当番だったのですが、起床予定時刻を大幅に超えて眠ってしまいだいぶ遅刻しました。まあたまには遅刻者の目線で記事を書くのも新鮮でしょう。僕の書く文章は毎回代わり映えしないし。
 サークルにゆく途中ちょっとしたお話のアイディアが浮かんだので帰ってから文章にしてみたのだけど絶望的につまらなくてげんなりしました。アイディアをいかに伝えるかということと文章的な面白さのバランスがうまく取れません。片方に注力するともう片方が非道いことになる。相変わらず連想ゲームは下手くそだし。そうだ、うまく例える練習をしようとか書いといてちっともやっていないのを思い出した。せっかくだし今の気持ちでも例えてみようか。ううむ、やっぱり難しいな……。
 あと僕は文章にライブ感を持たせるのが苦手ですね。今まさに考えながら書いていることでも過去形にしてしまう。だからといって今考えていることをそのまんま文章にしてしまうと、わざとらしくなっちゃうというか、人に読まれることを想定して思考を並べ直すと嘘っぽくなってしまうというか。僕の心の中にはあんまり真っ直ぐな時間がないかもしれないな、とふと思ったのだけれど嘘かもしれない。
 絵にしろ文章にしろ、僕は直前に触れたものに大きく影響を受けます。この絵柄いいなあって思いながら絵を描くとそれに近い絵柄になるし、良い文章を読んだ後に文を書くとそれに近い文体になります。面白いのは、そういう時は自分がニュートラルな状態で持っている技量を超えて良い物がつくれる(よう思える)ことです。人が使っている技法を無意識の内に読み取って、それを実現するための注意力が準備されているのだろうと思います。記憶してはいるのだけれど、意識的には思い出せない技術があるのです。それらが意のままに思い出せればずっと良い物がつくれるようなると思うのだけれど、なかなかうまくはゆきません。思い出すきっかけを作っておけばいいのかしら。でも思い出すと言ったって、言葉で書けるようなものではないし。自分の持てる全てを費やした絵や文章が一つあれば、それが鍵になりうるのだけれど。そんなものがつくれないから、こうして困っているのだ。
 これもサークルにゆく途中で考えたこと。もっとも効率のよい学習の方法は、丸暗記なのではないかと思いました。理解して覚えよ、なんていうけれども、実際アレは覚えて理解しているのだと思います。というのも、僕らは考えたいことを考えているわけではありません。心に浮かぶ言葉やイメージは、考えられた結果なのであって、だから、僕らが表面的に捉えられる考えや理解というものは、言葉の上の幻か、あるいは考え終わった後の結果に過ぎないのではないか。理解したつもりになるというのは、前者の状態なのではないか、と思ったのです。言葉によって対象の輪郭を定めることが出来るのは確かですが、それはやっぱり輪郭でしかない。もちろんそうすることによって対象が細切れになって覚えやすくなるということもあるんだろうけども。そういうわけで、数学の本の丸暗記を試みています。直観で把握できる範囲を超えて論理が飛躍している部分については、自分なりに整理する必要があるだろうけど、基本的には、あまり考えずに。ものは試しだ。