Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0912

 内井惣七の本に僕の文章と同じ種類の読みにくさを感じて少し考えたのですけど、彼も僕も無駄を省きすぎているというか、一度書いたことを二度書かないのですよね。でも、つらつら書き連ねたことを時折総括して、こういうふうに読んでくださいとガイドする親切さは必要かな、と思います。人間の記憶力を過信するのは良くない。でも書いている自分は全部見通した上で文章にしているわけだからその視点は見失いがち。やはり適当に時間をおいて読みなおすべきか。ただ飽きっぽい人間なので部分部分にあんまり時間をかけたくない気持ちもある。
 それから、今日自分の視界を観察していて気付いたこと。人間の視野って案外かくかくしているというか、注意するとフレームの切り替わりみたいなものを感じる。けれども通常は、動きそのものに対応する感覚が、その隙間を埋めている。それがどうしたという話だけれど。頭のなかでオブジェクトを回転させるときもそうなのですが、人間はオブジェクトの空間的配置以外に、回転とか移動とかの動きそのものを感覚するようにできていて、逆にパターンとして持っていない動作は、頭のなかだけでシミュレーションするのが難しい。特に、ゆっくりした動きを想像するときに難しさを感じます。いつの間にか速くなってしまう。一方で、ゆっくりした動きであっても、フレームごとを意識しながらパラパラ漫画のように再生すると、ゆっくりした動きでも頭のなかで考えられることに最近気づいて、それで、実際の視覚もそういった性質を持っていることに気付くに至ったのです。個人的には、結構面白い事実。
 僕は責任感のある輪郭線を書くのが苦手だと思います。輪郭というのは見いだされるものであって、そういう主観性を織り込んだ上で絵にしてやらねばならないわけだけど、集中力がないからか、すぐに雑な線の束で代用してしまう。色塗りする上で向いていないから、もう少しちゃんと書けるようなりたいのだけれど。先に色で形を書いた上で、縁取るのが良いかしら。ううむ。
 免許を取らねばならないようです。自動車を運転できねばならないという感覚がうまく内面化できていなくて、あまり乗り気になれません(乗り物だけに(はい))。あんな鉄の塊をあんな速度で動かすのが怖すぎるというのもある。まあ持っていて損にはならないのだろうけど、値段がなあ。足元見られているというか。でもそれは大学の学費なんかも一緒かも。ううむ。単に面倒くさいのを理由つけて正当化しているだけな気がする。