Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 生きることはパターン認識であるという洞察は、それなりに自分を方向付けたと思う。少なくとも、自分がそういう仕方で外界を認知しているという認識は、有用ではある。新しい自分の使い道が開けるという意味で。

 大学で講義を受けながら、自分の頭は人文学やるには理学的に過ぎ、理学をやるには人文学的過ぎるなあということを思ったのですが、それについて考えなおしてみるに、単に僕はやるべきことから逃れる道筋をそういった仕方で確保していただけなのかもしれません。ううん、というよりも、やるべきことをやることは大変で、どうにかしてそれを面白がろうと考えたら、そうするしかなかったということ、かな。
 自分がほんのり興味を抱いている物事に関して何かを強要されることは、どうでもいいことに関してそうされるよりも大きな苦痛を伴うよう思います。それはつまり、自分の興味のいだき方が多くの場合において正当なものではない、ということなんだろうけども。正しくアカデミックな価値観を内面化したいなあ、とか。

 やっぱり、ある概念を学習するときは、その概念の説明ごと丸暗記してしまうのが良いようです。要は記憶の連関をつくるのが良いということなのですが、書物で学習することが多い以上それがもっとも手っ取り早い。そういう言葉があったのはよく覚えているけれども、それが何を意味していたか覚えていないということは、この辺に起因した問題なのだと思います。おそらく記憶というものは、それが維持される本質的な作用によって散逸してしまう。記憶と記憶を結びつける作用は、ある程度以上に密接な記憶同士をより強く関係させ、そうでないものをばらしてしまう、という仮説です。この前勉強したフランス語の発音はだいぶ忘れてしまったけれども、前に文章ごと覚えてしまった数学書の内容はまだ心のなかにある。一通り説明として覚えてしまったら、後は心になじませること。より本質的なパターンとして神経のネットワークに取り込んでゆくこと。

 計算量理論の講義が割と面白いです。行列乗算の計算量がO(N^2.38)くらいに抑えられてるのすごいと思います。アルゴリズムが発見される、という文章の絶妙な心地よさ。非決定性チューリングマシンが計算のクラスを決定するのに役立つ、みたいなことをぼそっと言っていた気がするのですが、それがどういうことなのかイマイチわかりません。今調べてみた感じでは、単に非決定性チューリングマシン多項式時間で解けるものの複雑性クラスをNPとするらしいのですが、その正当性というか、どうしてそれが計算量の指標として扱われているのかまだはっきりしない。次の講義で聞けるのでしょう。どうでもいいけれどもその先生がテュアリングマシンと発音するのがちょっと好きです。