Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

最近のこと。

 最近の自分と、それについて考えたことをちょっとまとめて書いておきたくなりました。今の僕はちょっとした躁の状態にあって、たぶんそれは自分が少し変化したというか、新しい技術を獲得した、と感じている事による子どもじみた万能感に起因しているのだけれど、このままの調子で活動するのは危険な気がするし、なんというかみっともないことをやらかしているかもしれないって思いがあるから、そういう自分に釘を差すためにも文章として残しておきたいのです。うん。僕よ落ち着き給え。
 先学期、いよいよ自分はダメだなあとなった僕はコミュニケーションサポートルームの門を叩きました。自分には発達障害の雰囲気があるのは間違いなく、きっとそれが僕の諸問題の根本原因に違いないと信じていたから、専門の機関で検査を受ければ問題は解決するのではないか、と考えたのです。きっと自分には大きな欠陥があって、そこが足を引っ張っているに違いない、と。もしそうでないなら、他の人達は自分より単純に優れているか、もっとずっと沢山の努力をしているということになってしまって、そんなに難しい世の中で自分は生きてゆけないに違いない、とも思いました。
 で、実際いろいろと検査とかアンケートを受けてみた結果として、自分にはADHDとASDの傾向がありはするものの、実際の知的能力に関しては、まったくもって問題がない、ということが判明しました。もっと凸凹した頭をしていると思っていたので、ちょっと拍子抜け。それから、どうすればよいのだろうという混乱。薬にせよ訓練にせよ、何かしらの指針が与えられると思っていたから、また自分は同じことを繰り返してゆかねばならぬのかとげんなりなったのです。けれども同時に、自分の頭には問題がないばかりか、それなりに高い能力が備わっているっぽいこともわかったので、ひとまず自分の性格に対象を定めてもう少し考えてみるか、という気持ちにもなりました。もちろんパーソナリティにも問題があるという認識はあったのだけど、それはもっと根本的な原因から派生する副次的な要素だと思っていたから、本当のところあんまり問題視していなかったのです。
 そういうふうにして自分の性質や反応を観察していると、自分の中にはいろんな価値観が混ざりこんでいて、それらがせめぎ合っていることに気付きました。それだけなら良いのだけれど、自分は変に負けず嫌いなところがあって、それらの全ての価値観において、人に勝たねばならないという感情もありました。他人に自分にはない能力が備わっているのを見ると、彼は僕に出来る事はすべてできる上でそれもできるのだ、と考える癖があるっぽいのです。理想の高さは、それらの(僕の主たる価値観から見て)見苦しい価値観を、聞こえの良い言葉でパッケージしたものにすぎないということを、実感を持って把握しました。
 こうして、僕はいったいなにがしたいのだろうという問にようやく立ち向かう準備ができたように思われました。そもそも、他者や社会を抜きにして何かしたいことなんて残るのだろうか、そういうことを考えながらも、自分が心地良く感じること、喜びを感じられることを精査してゆきました。もちろん、そこには多くの嘘が残っているでしょう。元来、感情とか感覚とかは、そう感じられたほうが生存に有利であるからそう感じるのに違いないと僕は思っています。自分の身体を維持するのに必要な物質を美味しいと感じるみたいに。一方で、それらの気持ちには階層があって、社会的で複雑なものから、原始的な欲求まで入り組んでいます。多分僕は、僕が人の中で生きるために必要な気持ち、価値観のセットが肥大化しすぎてしまって、それを自分の力では扱えなくなっていたのです。それでひとまずは、出来るだけ原始的な欲求、自分以外のものに依存しない価値観を見定めて、まずはそれにしたがって生きてゆこうと思いました。結構思い切った決断だったと思います。そして選定したのが、五感を使う心地よさでした。
 身体への入力に注意を向けることは、結構面白いのだ。自分が一体何を見ているのかとか、何を聞いているかとか、普通だと自動で処理してしまってよくわからないままに応答を返しているのですけれど、そこに意識でもって切り込んでゆくことは、自分のことなのに新鮮で、暫くの間僕は生まれたばかりの赤ん坊のように、手探りで環境を認識しなおしてゆきました。実は視界はこんなにも広いのだとか、皮膚感覚が思った以上に重厚であったりとか、普段聞く音の中に不思議なパターンを聞いたりとか、そういう風に世界に対して自分がもう一度展開されてゆく感覚が、結構心地よかった。もちろんただの思いこみかもしれません。でも思い込みにせよ、感覚することに対する新鮮味はたぶん本物だったと思います。
 そうしているうちに、模写する精度が少し上がっている気がしてきました。よく見るようになったからかな、と思って、試しに大学に植わっている木を、ベンチに座って書いてみることにしたのです。出来る限り対象を、その幹の模様すべてにわたって写し取ってやろうと思いました。
 多分それがきっかけになったのだと思います。僕は自分の集中の度合いを、ある程度意識的に調節できるようになりました。なんと言えばいいかわからないけれども、ちょっとしたコツが有るのです。頭の奥にある微妙な感覚を制御する感じです。勉強の得意な人達はきっとこれが自然に出来るんでしょう。それから、僕は五感を使うことに加えて、集中することの面白さにハマるようになりました。うーん、違うな。自分を自由にすることの面白さにハマった、ということのほうが正しい、かも。
 あとそれから、自分が何かを感じることは、そうしたほうが都合が良いからだという視点から見て、つらさを感じることは不要であるということも思うようになりました。それは演出にすぎないのだから、実際にそう感じなくても、そういう振る舞いを見せれば良いという理屈です。そもそも僕はつらさを感じるしきい値が低くって、普通の人であればもっと平然と出来るところでいつもおどおどしていたから、このくらいでちょうどよい。別に普段の反応を変えようとまでは思わないけれど、大学や社会からのストレスに対しては、ちょっとだけ余裕を持てるようになって、そのぶん失敗も減りました。いや、単に最近躁だから、ということもありうるんだけど。ううん、実際どうなんだろうな。
 ここまでが、ここ最近までに起こった僕の内面的な技術革新です。実際的な反応が変わったわけではないけれど、心の状態を必要に応じて変更できるようになった、ように思っています。そういうことが出来る心理状態にあるだけです、という可能性も多分にあるので、実際どうかは知らないけど、ここのところちょっとだけ調子がいいです。体操しているのもあるのかな。
 とはいえ、哲学的な不安や、人とうまくやってゆけるだろうかという不安は、まだまだあります。経済面への悲観もある。自分に要求することを極端に下げたことによって得た安堵が、これからもう一度それを上げてゆく中で失われてしまうということも考えられます。のんびり生きられたらいいよね、では実際のんびり生きてゆけない世の中です。それからやっぱり僕は頭良くなりたい。もっと認識の解像度を上げてゆきたい。感じることの楽しさを理解してからよりいっそう。
 この文章を書きながら、得も言われぬ感覚に襲われています。泣きたいような、虚しいような。人生には本当に何もない、という認識が感情の形をとったような、そんな。
 生きるのは楽しい、ひとまずはそうして頑張るよ。にゃーお。