Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 昨夜はずいぶんたくさん眠ってしまいました。目が覚めたときはもう11時を過ぎていて、まあ別に午前は講義はなかったので別にそれで良いはずだったのですけど、携帯を見たらサークルのパートリーダーからメールが来ていて今日の2限に暗譜練習をする予定だったのこと。前回の練習の際に来週は都合でできないから再来週ねというようなことを言っていたような気がしてカレンダにもそう書いていたのですが勘違いだったぽいです。遅起きは三文の損って感じだ。

 視覚系についての講義を取っているのですが、いよいよ先生が何を言っているのか分からなくなってきました。活動電位の仕組みをやっているところなのだけど、話の内容を解釈できない。たぶん語彙が圧倒的に不足しているのが原因なんだけれども悪いのは僕じゃなくて先生の方だと思うのよね。その辺の分野についてだいたい知っている人に対し最近の研究成果を発表するようなノリで講義してる気がする。実際Wikipedia読んだほうが理解は早かった。その分Wikipediaの記事は講義ほど詳しくはないので、その部分のギャップは講義内容をもとにして埋めてゆかねばならないわけですが。
 こういう、いみわからん!という体験をすると、理解とはなんぞやという考えが頭をめぐります。もちろんいろんな仕方があるのだろうけれども、たとえば、細胞内外のイオンの振る舞いが活動電位を生じる、と言われてもなんら理解した気持ちにはなれません。で、更に踏み込んでゆくと、チャネルの膜電位依存性とかRC回路モデルとか出てくる。そういった概念は、よりミクロな物質の振る舞いを抽象化したもので、そう考えることで様々な事実が説明できたり予測できたりするのでしょう。でも、なぜかわからないのだけれど、そのあたりから強烈にもやもやが出てくる。たぶん、数式に思考を投げられないのと同じです。きちんと要素の対応を確かめた上で、細部を離れ全体を構成する、という考え方が、まだ上手にできない。自転車にまたがりつつも足を地面から離すことに躊躇いを覚える子供みたいに、思考を言葉に乗せてしまうことを躊躇している。
 理解することは突き詰めてしまえば記憶の連関をつくることだと思います。適切に連想が広げられること、論理の道筋を辿り直すことができること。そして必要になれば細部に戻って確認することが出来る、という保障のもとで、様々なレベルの理解が成立している。大事なのは細部に戻れるということで、でもつねに世界の最小単位にまで戻っているわけにはゆかない。だからここまで遡って確認できれば十分、という層をしっかりと頭に刻みこんでおくことが、必要十分な理解を形成するための条件なのでしょう。もしかすると僕は、そこをサボってしまったのかもしれません。全てのことははじまりまで遡れば説明できる、という考えが、導かれた結果の方を軽視する傾向へとつながってしまった。ような気がする。まあ要するに不勉強だということなのよね。思いて学ばざればというやつです。
 思うだけでも学ぶだけでもダメで、それらを両立させることが大切なのだというあの格言は真理だと思うけれども、しかし思うことや学ぶことそれぞれにのみ全てのリソースを割いてきた人間が、それを少し減らしてもう片方にも注力するのはなかなか難しいことだと思います。はじめるよりもやめることのほうが大変なことがあり、これはそういう種類のものです。こだわりを捨てるのはほんとうに大変。

 大学の後はサークル。演奏会まであと二週間ちょいしかないのつらいです。そろそろ諸々の準備をはじめなくては。ステージ衣装って用意出来てたっけな。