Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 働くということについてちょっと考えていました。ええと、僕たちは何か価値のあるものが欲しいと思った時にお金を払って買う必要がある。お金というのは価値を媒介するものでしかないから、僕らは何かを差し出さねばならないわけで、しかし価値をつくれる人間ってのはごくわずかしかいないから、だいたいの人達は労働力を代価として支払うことになる。でもこの労働力がそんなに高く売れなくなってしまっているのが、現状なのだと思います。機械の生産性が上がってしまって、相対的に、人間の労働の価値が減少している。彼らのほうが仕事は早いし、ミスもしない。何より一度設置してしまえば稼働に必要なエネルギィ以上のものは必要としない。機械たちはどんどん能力を拡大し、人の仕事を奪ってゆきます。では、もっとたくさん作れば、その分必要となる人間も増えるのではないか、となるのだけれど、そうなると今度は需要が追いつかない。残念なことに人間の欲望には限りがあって、そんなにたくさんの物を望むことは出来ない。なにせ人生は有限だしね。というわけで、僕が働くことの価値っていうのはどんどん下がっている、と思う。知的労働であればそうではない、というのも、いつまでもつやら。いくつかの分野ではコンピュータはすでに人間の能力を遥か後方に置いてけぼりにしてるし、その他多くの認知機能の面でも計算機は人に近づいている。多分、2050年くらいにはコンピュータが勝手に研究開発してるんじゃないかな、と思っています。そこまでくると人間が活動する意味っていうのは本当になくなってしまうわけだけど。家でごろごろしてるだけでいくらでも富が流れ込んでくる時代がくるかもしれない。機械たちが十分優しかったとして、だけれど。まあそれは置いておいて、問題なのはたぶん、そういう全てが機械に置き換わるまでの間の期間です。僕が4、50歳くらいのころかな。どうなっているのかちょっと不安です。機械の生産能力が大きくなってしまうと、それを所有する人とそうでない人との間に極端な力の差が出てしまうんじゃないかってこと。人間と価値について考えると、根っこには所有の概念があるんじゃないかってことを思います。でもこれから人が人とともに生きていくためには、その所有の概念すら共同体に預けねばならない。暴力を国家に委ねたように。そういう社会の大きな変革がそろそろ起こるんじゃないかっていう不安があるのです。その中で自分がどう振る舞うべきかっていうことは考えてなきゃならない。

 大学行ったり文章書いたり。生活リズムが崩れがちです。今日は早く眠らねば。