Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0113

 哲学概論の授業中、今日はハイデガーについてだったのですが、ふと思い立って「先生、身体は世界に含まれますか」と聞いてみました。滑りました。ちくしょう。(さすがに無理があったのは認めます)
 現存在という問題設定は少し面白いと思います。問うということ自体を自己の存在の可能性として備えているところの存在者。実存と呼ばれたりもするようですが、それは「この私」を比喩的に言っているのだ、と僕は理解しました。身体を含む物理的な世界からは導かれない、問いの対象としてしか扱えないような私。そういう私が、世界に投げ込まれているのだ、とハイデガーは言います。これが世界内存在という概念らしい。はじめは何言ってんだこいつと思い、どうしてそういう枠組みを持ってくるのだろうとしばらく考えていたのですが、おそらくこれは、私と世界の境界は曖昧である、彼の言葉で言えば「馴染んでいる」ということを意味しているのでしょう。私は常に世界によって「気分付けられている」というわけです。確かにそれはそれなりに合理的な認識であるように思います。僕はつねに外界からの入力に反応を返すというふうに生きている。生活空間に対して構造的に応対するスイッチをたくさん備えているから、僕はこうして行動できているのです。そこにおいて、自分の内と外という線引は意味を成さない。例えば、自分の手の傷を見て思い出にふけり、さらには思い出によって様々な感情を惹起される。ある種の機械論であり、私という存在者も、一点の現存在を除いて世界の側に属している。そういうふうに僕は講義内容を解釈して、そしてその理解が正しいのかを確かめようとしての冒頭の冗談だったわけです。
 ところでハイデガーの問題設定は割と面白いと思うのですが、そこからひっぱてくる議論の方は思想的でつまらない感じがします。ポエジィで解釈学的。まあただの印象なのであまり褒められた態度ではないのですが。それからあの先生の語り口に問題がある気もする。なんでもかんでも自分の仕事(それは「役に立つ」種類のものです)につなげようとするあたりが気に食わない。言ってしまえば彼は人を「説得する」ために哲学を援用しているのだ。それはもはや哲学でもなんでもなくて、宣教活動というほうが近いのではないかとすら思う。やっぱり大学の教師として食ってゆくには、そういう政治力が必要なのだろうか。例えそうであったとして、彼らはそれに飲まれてしまっているように思えてならないのです。

 さて、明日までにレポートをでっち上げねばなりません。めんどくさいにゃあ。