Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

薄気味悪さの話

 ふと、言葉を作ってしまえばいいのではないかという考えが浮かんだ。僕は言葉の粗さというか暴力的な部分があまり好きではない、と感じている。べつに僕の言語運用能力が低くって、それであてつけのように言葉を嫌っているというわけではないと思う。いやそういう可能性がないわけではないんだけど、うーん。なんというか言葉の表現力のなさを問題にしているのではないのだ。むしろ言葉によって表現するということそのもの、そうして表現された言葉がどういうわけか自然に使われていることが言いようもなく薄気味悪く感じられてしまう。
 人間はなにやら概念というものを使っているらしい。そして概念という概念を人間が扱えているということは、概念化する・類別するという機能は、人間の心にもとから備わっているということを意味している。人は概念化することを学ぶのではなくて、生まれながらにしてもともと持っている性質として、概念化するのだ、と思う。
 僕が言葉について感じる薄気味の悪さは突き詰めれば、この概念化という行為の、恣意的な感じ、なにやら正しくなさそうな感じに端を発している。例えばここにペンがありますと僕は言う。けれども、このペンとそれ以外との境目っていうのはまったくもって自明じゃない。そりゃあ、ある部分を掴んで持ち上げれば他の部分も引っ張られてくるから、そうした物質としてのまとまりをもってして一つの対象であるいう向きは一応筋が通っている。そしてそういう風に考えるから、その物質塊をペンとして利用することが出来ている。目的論的な、道具的な、行為の対象としてものを見る見方だ。定性的な表現とも言える。でもそれじゃあ抜け落ちてくるものが沢山あるし、複層的にもなる。ペンのキャップはペンの一部だけど一方でペンのキャップとして独立して見ることができる。それから樹からもいだ林檎を林檎と呼んでみて、皮についた汚れや、果実にくっついてきた樹の枝の一部や葉っぱは忘れられている。なにより、ひとつの樹からとってきた二つの果実がともに林檎と呼ばれるのは不思議であり、林檎の木の葉と梨の木の葉が同じ葉として認識されるのはなんとも妙な話だ。もちろん、そのように呼ぶ規準を設けることはある程度出来る。どういう機能を果たしているかとか、どういう物質構成になっているかとか。でもそうしたやり方だって、概念化することを完全に抜きにしては、つまり何かを削り落とさなきゃやれない。
 本当は、この本当はって言葉がなにを意味しているのか僕にだってわからないけどともかく、本当の世界は一枚の絵になっているはずだと思う。つまり絵の具で形作られた模様だってことで、そこにものなんてない。ひと続きに連続した何かがあるだけで、それを切り分けるのは僕ら人間や生物の働きだ。そうしたほうが生きるのに都合がいいって程度の理由でおそらく作られた機能だ。
 科学は物事を定量化して扱うという。それは要するに測ることの出来る基準をもって物事を分けるということで、言葉によって世界を作りなおすということでもある。林檎を見て林檎だというのではなく、林檎はこういうものであると決めてしまう。それは、言葉の上で作られた構造を、物質の世界に書き写すには必要十分なやり方だ。そこには曖昧さはない。世界という絵を削りだすことによって得られた概念を、世界を削りだすことによって表現する。なにによって表現するかは問題じゃない。電子回路によってであろうと紙とペンによってであろうと等価な計算は可能である。
 でもそういう方向性ってなんかちがうんじゃないかな、って少し思う。それ自体はすごく便利な見方なんだけど、けれどもそれって、世界を探求しているようで、自分の脳の仕組みを調べているのと同じなんじゃないかなって思う。言葉を物質世界に拡大しているだけなんじゃないかな、と。もちろん、世界にはいまだ人類の知らない現象が起こりうる。それを観測し説明をつけることによって、世界を知ったと言いたい気持ちになるのはわかる。だけど、逆にこうも考えられないだろうか。ある現象を、言葉とそれを観測する仕方によって規定する。それによって言葉の世界が広がって、広がった世界ではそこで規定された現象が起こる。こんな風に。
 勘違いされてしまいそうだけれど、言語的な世界を広げることが物質的な世界を規定するという意味ではまったくない。一枚の絵としての物質世界はあるんじゃないかと確証はないけれど僕は信じている。ただ僕が言いたいのは、言語によって規定された現象は「起こるか起こらないかのどっちか」だっていうこと。規準を決めるというのはそういうことだ。そして、そこからは何かが抜け落ちているんじゃなかろうかというのが、僕が襲われている不安ということになる。
 そういう不安から僕を救い出すような、既存の言語からは抜け落ちてしまうような何かを掬い上げるような言葉は可能だろうか。たぶん、類別することなく全体的な模様として物事を把握するような言葉になるだろう。概念を抜きにした思考。そんなものがありうるだろうか。そしてあり得たとして、それによってなにが出来るだろうか。そこでもまだ「私」は残っているだろうか。
 自分の不安を解消するような言葉を作ってしまおうという思いつきから、その要件について考えているうちに、どうもそれは難しそうだということになってしまった。類別することを抜きにして思考するということは、あらゆる可能性を検討して未来を予測するということで、極限では世界そのものに一致する。そもそも物理法則の進行だってある種の思考ではあるわけだ。なんといっても、人間は物理法則に従いつつものごとを考えている。だから世界の考えは人間の考えを部分に含む。世界は自分についてどのくらい知っているだろうか、僕はいつか世界に聞いてみたいと思う。
 こういう種類の思考、あらゆる可能性を計算した上でどれか一つを選び出すという考え方は、容量の関係で人間の脳には難しいけれども、いつの日か人工の知性にはある程度にせよやれるんじゃないかって気がしている。そいつらはもちろん人間の考えるようなことは部分に含んだ上で、もっと得体のしれないことを考えているといえるんじゃないかって空想をしている。彼らは自分自身のことをどう考えるだろう。これについては、どうやら生きているうちに聞いてみる機会がありそうで、僕はたいへんわくわくしている。