Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0218

 雨が降っていたので家で本を読んだり数学をしたりしていました。人生がこういう一日の連続であれば良いのにと思ったりもするのだけど、そう思えるのは適度に面倒事に包まれているからなのかもしれません。あるものを心地よく感じるために、その反対を経験する必要があるということ。生命が、本来何もないはずのところから、なにやら生きるという営みを引っ張り出してきている以上、快と不快は必然として対生成されるものなのだろうということを考えています。そして定期的に快と不快とを経験することによって好悪のパラメタを調整し続けなければ、バランスを崩してしまう。だから不安定さを楽しむというのが、長い人生を生きる上でもっとも便利なスタンスなのではないかと僕は思っています。安定志向というのは、つい食べ過ぎてしまう傾向と同じように、そろそろ必要でなくなりつつある形質なのではなかろうか。

 「この文は嘘である」がパラドックスと呼ばれるのに、「lim_{x \to \infty}sin{x}は振動する」がたいして問題にされていないのはどういうことだろう、ということを考えていました。別に「この文は嘘であるからこの文が嘘であるということは嘘であり、ということは……」と無限に続くことそれ自体を問題とする必要はないのではないか、ということです。ただそれを受け入れれば良い。矛盾という言葉は、大して特別なものではないのだ。機械じかけの論理が、世界の背後で厳然と稼働しているわけではない。存在するのはただ適用である。ウィトゲンシュタインの受け売りですが。

 ウィトゲンシュタイン数学基礎論の講義で、チューリングは、算術において矛盾が導かれることによって「橋が落ちる」ことを問題にしていた。矛盾から任意の命題が導かれてしまうことによって、我々の営みが破綻してしまうことを。だがそれは本当に問題なのだろうか。実際、例えば零による除算を認めた計算体系の中で1=2が示されてしまったとして、そうした規則が計算結果の不一致を生じうることを僕らは知っていて、だから(それだけが理由かは僕は知らないが)零による除算は禁じられている。だいたい科学理論だって仮説を作っては壊すことの連続であって、そういう失敗の連鎖によってだんだんと理論を整備してゆくということを人類は普通にやっている。だったら数学や論理学だって人間の知性についての科学理論であるとしてどんな問題があるのだ、ということを思うわけです(知能の心理学でピアジェも似たようなことを言っていた)。数学や論理学はあまりにつるつるしていて、経験から離れたもののように思えてしまうわけだけれども、ようく見るとやっぱり認識の尻尾をまだお尻にくっつけているのだ。僕の見間違いかもしれないけど。

 積んでいたイーガン「白熱光」を読みました。擬似科学史としては非常に優れていると思うけれども、彼の描くポスト・ヒューマンはすこしばかり古臭すぎるのではないかと思うよ。なんというか悟りが足りない。