Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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世界を切り分けたのは私なのだから、「私」という言葉も私が切り出してきたものの一つであるに違いない。そしてそれゆえにこの「私」という語の用法は、"私"を直接指差しているとは言いきれない。むしろそれは私のほうに対応するものである。

私は一個の現象であるように思われる。私から見た他者がそうであるように。しかし同時に、私は"私"でもある。こんな事態があって良いのだろうか。私は混乱してしまう。

私は3つの構図(世界観)を思い浮かべることができる。

  1. 私という現象は記述され得ない。世界は要素還元され得ない。
  2. 私が現象として記述されうることと、私が"私"であることとは矛盾しない。"私"はチェスの駒にかぶせられた紙製の王冠のようなものであり、何らルールには関わらないが、しかし"私"にとっては意味のあるものである。
  3. 私は"私"ではない。"私"は存在しないか、あるいは世界の全体である。

「私」が概念にすぎないということは、私を1ないし3の考えへ誘う。言葉と概念は信用ならない。それらは、あるべくしてあるものではないと思うから。例えば、「私」が指示するのは私という肉体とその着ている服のことである、とするような変更は容易だ。逆に「私」の指示対象は私の脳だけであって、体は「私」に含まないとすることもできる。私は"私"が私の脳に住まう何者かであるという考えを捨て去ってしまって久しい。私の脳髄は、私や他の人々を眺めながら「私」という特徴量を抽き出してこられる程度の演算装置にすぎない。そんなところに"私"は出てこない。それほど簡単に条件を満たせるのであれば、世界のあらゆる部分は"私"に満ちてしまっているだろう。そうでない保証は、もちろんない。