Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0415

 4限が休講で暇になったので安田講堂横のベンチでひなたぼっこをしているとキリスト教の勧誘に捕まりました。空の青さはいつにもまして鮮やかだし風は心地よいしで完璧な昼下がりという感じで、無視を決め込もうかとも思ったのですが、いかんせん暇だったので適当に話をしてみました。気分があまりに落ち着いてしまっていてなにもする気分にならなかったから、適度に波風立ててくれるものを求めていたのかもしれません。
 その人は韓国出身の女の人で、人生の虚しさを紛らわすために逃げるようにドイツへと留学し、そこでキリスト教の信仰に目覚めたのだといいました。自分が神に造られたのだと思えば虚しくないのだそうです。僕はその気持がよく分からなくて(誰にどんな目的で作られたからといってそれは僕を完全に規定してくれるものではないと思います)説明を求めたのだけれど、同語反復的な解答しか返ってこなかった。僕の「人生、いかに上手に騙されるかみたいなところありますからね」という発言に理解を示してくれただけに少し不可解です。どういうきっかけで彼女は聖書の記述が絶対の真理であり自らについてのメタな規定だと信じるようになったのだろう。かつて宗教など麻薬のようなものだと考えていた人間が(当人談)どこに神を見出したのだろう。その飛躍がうまく追えなかった僕は彼女の背後に悪意を想定してみたけれど、しかし話しぶりからはそんなものは感じられませんでした。心の底から人を幸福にしようと考えているようだった。不思議だなあ、と僕は思いました。
 その人と話をしていて思ったのは、僕は僕の感じているこの虚しさがそれなりに好きだってことです。それはなにもなく透きとおっているがゆえの正しさを僕に予感させる。そういう意味では僕は自分で思っているより宗教的な人間なのかもしれません。宗教法人空集合でも名乗ろうかしら。冗談ですが。というかこれ仏教の二番煎じぽい。

 「認識についての認識」についての哲学的議論は枚挙にいとまがないけれど、そんなの別に大したことではないんじゃないかと考えています。例えばなにかを見る度に「自分は○○を見ている」と言う人がいたとして、しかし彼はそこで「○○が見える」と言っても良かった、ということです。もし前者をメタな認識であるというのなら、殴られた人のあげたうめき声だってメタな認識だと言わねばならなくなると思う。
 自らの言葉を自ら理解できてしまうがゆえに、「私」についての言及が可能であるように錯覚してしまう。けれどその私は他者を敷衍した先に現れてきたコンセプトとしての私なのです。僕らには決して自己言及など出来ないのだ。

 5限は数理手法。計数工学科の機械学習についての講義です。統計の概念をだいぶ忘れてしまっていたので家に帰って勉強しました。ひとまず多項分布の期待値や分散を自分なりに導出してみています。のんびり考えるのは楽しい。しかしあまり時間がありません。僕の頭は人より疲れやすいみたいだし。