Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

世界と主観のこと

 素朴な物理主義の立場では、知性は本質的なカテゴリではないので、仮に主観の性質が世界そのものの性質であったとしても、「人間に主観が宿る」という構図は明らかに不適当である。ゆえに自我と他我とを別物にしたまま主観について語るためには、物理法則の範疇で主観の成立を説明せねばならないが、それは客観的であるがゆえに自他の非対称性の問題を超えられないに違いない。そうなると、自他の非対称性は存在しない(すなわち世界は主観そのものである)か、あるいはもっとミクロのレベル(例えば全ての素粒子が別個の主観を持つなど)で成り立っていると言わねばならないように思われる。その区別には意味があるだろうか?
 世界について何かしら語っているように見える僕らの知性も、結局は析出する結晶と同じように、自然法則に従って構造化している物質に過ぎないのである。