Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

生きづらさについて

 一般に、「なぜ?」という問いには限界がある。理由と説明の連鎖には上限が存在し、どこかでそれを打ち切らざるを得ないことを我々は経験的に知っている。子供の「なぜ?」の応酬を浴びたことのある者や、つねに「なぜ?」と考えてしまう者はよく実感しているに違いない。そうした上限を規定しているのは、当人の知識や人類の学問の限界であったり、理性の限界であったり、はたまた世界そのもののの限界であったりするのだろうけれど、それを問うこともまた「なぜ?」の俎上に乗るものであるがゆえに、やはり我々の探究の手のひらからするりと逃げ出してしまう性質のものだ。とにかくそういうわけで、我々はどこかで理由の遡及をあきらめてとりあえずの納得で場を濁したり、あるいは悶々とし続けたりすることになる。

 さて「なぜ私は生きるのか」という問いも「なぜ?」を含むがゆえにこの問題から逃れられない。やりたいことがあるからとか、死ぬのが怖いからとか理由を述べることはできるけれど、ではそれはどうしてか?と言われればたいてい言葉に詰まる。もちろん言葉に詰まったところで常に問題が起こるというわけではなく、「よくわからないけれど自分はそうしたいんだ」という風にある種の開き直りでもって切り抜けることのできる人間は存在するし、それが大多数であるとも思われる。だが一方で、この「人生の意味付け」の問題と社会情勢その他もろもろの関係によってどうしようもない「生きづらさ」が顕現することがあるのもまた事実だと私は考えている。この文章ではそのことについて掘り下げてみたいと思う。
 「生きることの意味」に究極の基礎を設定できない以上、我々はふつう自分の気持ちに従って生きることになる。これは生物としては一般的なやり方だ。生命体は自己と外界との間に境界線を引き、自己保存の欲求によって活動する構造物である。その欲求に理由はなく、むしろそういう欲求が生命の前提であるという方が実情に近い。
 だが、問題はここにあると私には思われるのだが、シンプルな生物的欲求でもって社会の荒波を生き抜くのは案外難しい。じっさい、三大欲求にそのまま従っているような輩はただのダメ人間である。だから、我々が社会生活を営むためには社会の実情に則した形で欲求をアレンジする必要があり、そこで大切なのが社会的「おとぎ話」である。例えば、「社会的成功」とか「友だちがいるのは良いこと」とか「老人はいたわるべき」とかいったものがおとぎ話だ。
 ここで私が「おとぎ話」という語を使ったのは、それが論理的必然性を持つものではなくむしろ規範的なものだからだ。先に述べたように、究極の理由付けができない以上、我々が普段使いにしている理屈というのは単にそうすることになっているという程度の規範にすぎない。もちろんそれには、そうすると諸々が上手くいくというような妥当性はあるだろうが、あらゆる時代・場所においてそうすべきというような絶対の基準ではない。実際、地域や時代において倫理的振る舞いは異なっていて、ゆえに規範性とはむしろ個人的欲求と社会的欲求の相補的流動の過程として捉えるべきものだ。人間が集まり、そこに規範が生まれ、その規範を内面化した人々がさらに規範を発展・変容させてゆく。そうしたダイナミズムがおとぎ話生成変化の本質である。
 ところが、こうしたおとぎ話に参加できない人間がいるのである。彼らは自分の生物的欲求を社会化することができず、それゆえ社会の内部では生きづらい。「社会的成功」を欲求できないがゆえに、それらを貪欲に求める人々の中で相対的に劣位に立たされているのだ。彼らはいわばやる気のない人間であるのだが、彼からからすれば社会的やる気のほうが異常なのだである。そしてさらに、そうした人々の一部は、自分の欲求と社会的な欲求の差異を知っているために、自分自身の欲求もまた本質的ではないことに思い至る。「人生に意味はないかもしれないけれどせめて楽しもう」とか「限りある人生だから云々」といった言説もやはりおとぎ話の亜種であることを看破する。とくに彼らにとって自分の死の問題は重大だ。というのも、彼らは社会的価値観に参加できないがゆえに、死後の名声だとか人類の行く末だとかに自分の欲求を仮託することができない。自分にとっての自分の価値が究極的に自分の内部で閉じており、外からの価値付けに無反応である。そのため己の死はあらゆるもののお終いということになり、だから「いつか死ぬのなら何をやっても無駄ではないか」と自然に考えてしまう。実際その通りなのだからどうしようもない。
 ところで人がおとぎ話に参加できないのはどういう状況においてだろうか。そこには「自覚」が関わっていると私は思う。自分の情動について理由付けがなされると、途端にその情動が薄れてしまうということがある。情動のメカニズムが自覚されることによって、その情動が外部化され個人的なものではなくなるのだ。愚痴を言うとすっきりするのもそういうことなのだと思う。同じようにしておとぎ話についても、それがフィクションであることが自覚されると、そこに無自覚に参加することはもはやできない。必然的ではない規範=おとぎ話に参加するということは、いわば当の規範に騙されるようなものなのだが、それに自覚的な彼らは騙されることができないのである。彼らはひどく冷静に己の内部の虚無を直視し、なにか成そうという気力を失う。それはある意味で涅槃にも似た状態であると私は思うのだが、少なくとも当のご時世においては、その手の人間は生きづらいのである。
 最後に、自覚が情動を薄れさせるメカニズムについて、私なりの仮説を書いておこうと思う。我々は自然に「私」という言葉を使うけれど、この「私」が何を指しているのかは定かではない。それは脳だろうか、それとも皮膚に覆われた領域だろうか。それから例えば自分の脳を半分にしてみたとして、どちらが「私」を続けるだろうか。こうした思考実験ができるくらいには「私」の意味は曖昧である。すなわち、物理主義的に見るならば、換言すれば、世界を素粒子と物理法則のダンスとして解釈するならば、人間と世界を分ける境界線など存在しない。ただ一枚ののっぺりした模様があるだけで、そこに人とそれ以外を区分する輪郭線はないのである。ゆえに、私と世界の境界線は、脳が学習したものであるのに違いない。そして、それが学習されたものであるなら、学習のしなおしも可能なはずである。我々は、そこに意志を感じられないもの、法則的に理解可能なものを自然的なものとして見ることに慣れている。ゆえに、自分の情動が法則的に、因果関係として捉えられるようになったら、それも自然的なもの、すなわち自分の外部にあるものとして規定し直されてしまうのではないか。私と世界の境界が学習し直され、因果的に説明された欲求は自分の外側に置かれてしまう。いわば「私」という「おとぎ話」の崩壊である。ここに「生きづらさ」の源泉があるのだ、と私は考えている。