Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

音楽

 廃墟。打ち捨てられただだっ広い空間。人類はすでに絶えてしまって久しい。栄華をきわめた科学文明も悠久の時の流れには逆らえなかったのか、少しずつ自然の侵略にさらされていた。侵略!なんと人間的な響きだろう。自然はただ物理法則の体現者であるに過ぎない。それは決して名前を持たない変転であり、部分であり、全体であった。そして、かつての人類もそこに含まれていた。だが人類だけは、愚かにも、あるいは不幸にも、言葉によって認識を歪められ、自分自身のみは宇宙の特権階級であると信じ込んでいた。世界の秘密を覗き見うるのは自分たちをおいて他にはないと驕り高ぶっていた。彼らは最後までその誤りに気付くことはなく、そのことを深く哀れんだ機械たちによって、ゆるやかにしかし着実に滅ぼされたのだった。
 人も機械もいなくなった地表で、言葉の抜け殻たちは風雨や動植物の闊達な活動に削られ続けていた。当の廃墟も例に漏れず、タイル張りの床面はところどころ剥がれ落ち、耐久性が売りだった窓ガラスももうあらかた砕けてしまって蔦や鳥類の侵入を許している。屋根に穿たれた大小様々な穴が、人類の時代からしていくぶん肥大した太陽の光を通過させ、空気中に浮かぶ粉塵を照らして幾筋もの光条を作り出していた。穏やかな新緑の時空間。逆説として、ありとあらゆる種類の永遠がそこにはあるように思われた。

 廃墟の真ん中に、一台のピアノがあった。自然的調和のなかにあって、それだけが異様であった。黒く艷やかなグランドピアノの筐体は、傷ひとつなく、埃ひとつ被ることなく、まるでついさっきそこに設置せられたように厳かに存在していた。モノリス。私は、知らず知らずのうちにそうつぶやいていた。それがどういう意味をもつ言葉であったか私にはわからないけれど、なんとなくそう呼ぶのに相応しいような響きがあった。私はピアノに近づき、そっと表面を撫でてみた。つるつると、それからひんやりとしていた。
 とうとつに私は、このピアノを壊さねばならぬと直観した。それこそ私がここにいる理由なのだ、と理解した。このピアノを粉々に砕き、すべてに終止符を打つために私はここに遣わされたのだ。いつの間にか、私の手には斧が握られていた。ずっしりとした重みを肩に感じる。ピアノはなにものにも侵されえない絶対の硬質さを秘めているように思われたけれど、この手斧がピアノを破壊できることもまた明らかだった。なぜなら、それが私たちの目的であったからだ。
 私は斧を大きく振りかぶった。手に汗がにじむ。滑らないようにと、私は握った指を調整し、握力を込めなおす。あとは振り下ろすのみだ。そうすれば、すべてが終わる。認識が拡張され、思考は澄み渡ってゆく。引き延ばされた時間感覚の中で、私は、ピアノの表面に映る私自身の姿を見た。私は、少女だった。

 私は手斧を放り投げて笑った。ただひたすら笑い続けた。脳髄が灼熱し、涙がとめどなくこぼれた。廃墟が私に共鳴した。ピアノも私に共鳴した。あらゆるものが震え、響き、呼応し合った。驚いた鳥が鳴き声を上げて飛び上がり、一陣の風が樹の葉を鳴らした。音楽だ、と私は思った。
 私はピアノの屋根を開き、高さを調節してから椅子に腰掛けた。鍵盤蓋を開いて、とりあえず適当な鍵盤を叩いてみる。440ヘルツの疎密波が廃墟にこだまする。私はまたひとしきり笑って、それからメロディを奏ではじめた。かつて人々がそうしていたように。あるいはこれから人々がそうするように。私は音をつくり、音を聞いた。循環があり、発展があった。生があり、死があった。そこには内に閉じた意味があった。そうして私は、音楽になった。