Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0913

 自動車学校のせいで街で見かける自転車への印象が軽車両!になりました。

 相変わらず眠れない生活が続いているけれど、交感神経優位になっている影響か瞬発力が水増しされており、おかげで生活上の諸問題が幾らか解決されています。部屋が多少整理されて物事が効率化され、キッチン周りの状態異常を回復した結果なにか作って食べるかという気分になり、紅茶をいれて飲む余裕が生まれ、自動車学校にも通えている。慢性的な睡眠不足によって記憶力思考力その他諸々はだだ下がりですが、生きるためにはひとまずやってしまうことが重要な側面というのは多々あって、現状のほうがうまく物事が回っているのは少し(僕に対する)皮肉っぽい。もちろんもっと健やかな状態でこうあれるのが一番いいのですが。それからこの前向きさが一過性のものであることは明らかなので今のうちに諸々を軌道に乗せておかねば。

 仮免前効果測定を受けにゆきました。所内のPCでポチポチと50問の○×クイズに回答し、90点以上なら合格。まあなんとかなるでしょうと勉強もなおざりにひとまず受けてみたところ74点という現実的なスコアが返ってきて真顔に。反省して復習したのち再度受けたらきちんと合格しました。90点でギリギリだったけれど。次は修了検定です。

 帰って寝て、シャッフル航法を読んでいます。今のところイグノラムス・イグノラビムスがお気に入りです。意味不明なんだけれど知性階梯のどこかにはそれを一貫して解釈できるセマンティクスが存在するのかもなって思えるたぐいの表現に弱い。「もしライオンが言葉を喋ったなら、1+1は2ではなくなる」。森博嗣メソッドの亜種。
 最近の円城塔は前にもまして「宇宙はそれを認識する主体によっていかようにも理解されうる」とか、「我思う故に我ありと私に思わせているような別の主体が存在する」みたいな方向に思索を展開している雰囲気があります。それは僕の考えていることにある程度似通っていて、親近感を覚えもするのですが、だからこそ逆に読みづらく感じることも増えている。干渉するのです。完全な法螺として読めれば問題ないのだけれど、それをするには僕はそのへんの考え事を大事にしすぎている。

 感想を書くのは苦手です。感想を述べ合う文化のないところで育ったというのもあるのだけれど、そのコンテンツには作者がいるという認識が薄いのだと思います。ちょっと違う。「作者を仮想する」のが苦手なのです。作品を逆に辿って作品の意図とか思想とかを仮定して、そこから作品を眺めるみたいなことができない。僕の中で作品というのは書き手とか意図とかとは独立して成立していて、むしろ自然物に近いところがある。神のいない世界の自然の風景。なのでわあすごい!以上の感想が出てきません。何かを論評するプロセスには、どこかに擬人化の行程を挟まねばならないと思っていて、なんだかそういうことはしたくないのです。とはいえ作品によるのだけれど。