自己認識としての「私」と、この私としての〈私〉は別物だよね、だって自己認識を有する存在のうちこれだけが僕なのだし、と言ってみたとして、同じことは僕以外の人間にも言える。
言語の一般性の裡では、ich denkeのich、つまり統覚・自己認識としての「私」しか指し示すことができない。主体は世界の限界である。
僕は世界を見ているのではない、網膜の状態を感じているのだ、と言ってみることができる。
脳を外側から見たとき、脳の神経パターンには意味はないのだ。たんにその(外的には無意味な)パターンによって処理された情報(これも外から見れば無意味である)が、その当のパターンにはとって意味があるというだけで。そして世界を外側から見たとき、その脳とそれ以外を区別するような境界もない。
あらゆる相互作用に心が宿るのだ、という空想。