Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0208

 最近、人に憧れるのをやめた。それでは自分を制限するだけだと思うようになったから。僕は自分が自分であるということにおいて最高性能を発揮すればよいのだ。

 僕は自分の思想、たとえばこの世に本質などないこと、世界と私とは同一のものであることなど、の正しさを半ば確信しているけれど、ではそれを言葉で説明せよと言われれば、無理だと答えるほかない。ただ僕には世界がそのように見え、そのようにしか見えないということなのだ。だから本当は「確信している」などと書くことじたい余計事なのである。人は普通、私はこの赤が赤いということを確信している、などとは言わない。

 自分の哲学をまとまった形で書き残しておくためにはどのような形式を取るのが良いかということを考えた際に、ふと洞察と論証の違いとはなんだろうと思った。そこではじめに思いついたのが、論証は古びるが、洞察はそうではないということである。その理由はおそらく、論証とは説得であり、洞察は説得された側の声だというところにある。

 僕は人間の言葉には大別して説得と感想の二種類しかないと思っている。人が「Pである」と主張するとき、それは、こういう状況では「Pである」と主張すべき、という説得を含んでいる。というのも、言葉を教えるー言葉を学ぶということは、本来的にそういうものなのだ、たぶん。学ぶということは、ある状況においてどう行動するかという対応表を知ることであり、同時に、ある状況を他の状況と区別する境界を知ることでもある。世界をどのように分節し、分節されたそれぞれの状況においてどう行為すべきか評価すること、人間がやっていることはたぶんそういうことだ。言語使用や思考も例外ではない。僕らが思考や言語を特別視しがちなのは、それらがそれら自体によって規定されるようなちょっと入り組んだ構造をしているからに過ぎない。結局のところ思考は身体的所作の延長なのだ(「手話によって思考する」ことについて考えてみよ)。たとえば「私とはなんだろう」という言葉が心にふと浮かんだときに、「というのも沢山の人々の中でこれが唯一私であり~」などと続けたくなるような、状況と行為の対応ができているというだけのことなのである。ちょうどかゆい部位があるといってそれを掻くのと同じように。

 話の筋が自分でもよく見えなくなってきた。まあ、筋というものも「在る」ものではなく「見出される」ものである。すべて真理というものは認識に相対的なのだから。という意味では、ここで僕が書いていることも、「僕にはそう見える」という以上のものではない。今のところ僕は説得を試みてはいない。

 そういえばウィトゲンシュタインの哲学の中には論証というものがあまりない。彼は単にそのように世界を見ており、そしてそれを自分で知っている。「もし誰かが〈差異など存在しない〉と言うなら、わたしは〈差異は存在する〉と言う。わたしは説得しているのであり、〈諸君にそれをそのように見てほしくない〉と言っているのである」。それを知っているからこそ彼は議論(それはたいてい時代的なもの、いずれ古びるものである)をするのではなくまっすぐ説得を試みる。彼はただ自分の洞察と、それに至った過程を語る。通常の認識枠組み、分節化の仕方が、その機能をうまく果たせなくなるポイントを提示し、それによって既存の認識が絶対ではないこと、別の枠組みもありうることを示し、それへの移行を迫るのだ。僕はそれなりに多く(といっても哲学徒としては全然だが)哲学書を読んできたけれど、ウィトゲンシュタインがその中でひときわ異彩を放って見えるのはそういう理由によるのだろう。僕にとって彼は哲学者ではなく宗教家に近いものとなっている。

 僕が自分の思想を誰かに読める形で書き残すとするならば、きっとそういう説得の形式を取らねばならないだろう。きわめて読みづらい、独善的で、傍目には妄言にしか見えないものになるに違いない。ある意味ではまさにそうなのだ。普通ではない世界の捉え方を書こうとしているのだから。

 僕はいま、自分の思想が人に理解されない場合の言い訳を書いているのかもしれない。自分の世界観に従うならば、それは別に構わないのだけれどしかし。なけなしの社会性が僕にこういうことを言わせる。

 僕にとって頭が良いということはとても重大なことだった。それは世界の解像度に直結すると考えていたから。けれども、こうして見てみると、知能というものも本質的な要素ではなく、いうなれば人間性のある側面にすぎないということになる。高い知能とはいわば突出した人間性(の一部)であって、それ以上のものではないのだ。人間たちの中ではそれなり役に立つものではあるけれど。しかし知能の高さを有用たらしめているのは平均的な人たちの世界認識、価値観なのだと思うと少し可笑しい。能力というのは人々の総和が作る物差しの中で自分がどこに立っているかということである。ちなみにその物差しは存外に短いので、あまり端に寄ると落っこちて死ぬ。知能検査のスコアから見て僕はあまりに無能すぎやしないかと思っていたけれど、あのくらいのスコアというのは世の中の物差しではあまり意味を持たないというか、生存の機能としての知的能力の実態とはかなり乖離しているのである。ある領域で近似として用いられている式をその領域の外で使っているようなものだ。一応値は出てくるものの、それに実際上の有用性はあまりない。人間というものがきわめて複雑な現象である以上、いつでもどこでもうまくゆく近似というのはありそうもない。こうしてみるとごく当たり前のことを書いている。とにかく、僕は普通ではなく、普通ではないだけだった。この普通でなさを役立てられるようなルートもあったかも分からないが、僕は失敗した。そうなってしまうと僕はもうIQという単なる値が高いだけの障害者である。普通ですらない。知的能力で見れば、多少の情報処理能力の高さを虚無感が相殺して平凡、同時に虚無感だの無能感だのが精神をダメにしていて、全体としてはかなりのポンコツである。なんだかもうまともに生きてゆける気がしない。

 冒頭の前向きさから一転してひどく鬱々としたことを書いてしまった。ここのところあまり気分が安定していない、ちょっとしたことで乱高下する。昔からずっとそうだったかもしれない。なんだか自分がどういう人間であったかちょっと見失っている感じがある。自分の色を忘れてしまったような。