Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

注意

 結局のところ自分はそれっぽいことを言っているのにすぎない、ということはつねに意識しておかねばならないと思う。これは保険のようなもの。

 なにかを主張するためには根拠が必要だとはよく言われることである。同時に、根拠の連鎖を無限に遡り続けることもできない。スピノザなどに言わせれば、真理とはそれ自体で正しいものであってさらなる根拠を必要とするようなものではないらしいのだが、それは認識が甘いと思う。むしろ真理の正しさは、それを認識する人たちの大部分が同じような仕方で狂っていることによる、と僕なんかは考える。もちろんそれを真理と呼んでいけない理由はないし、実際世の中はそのようにして正しいものと間違っているものとを識別している。ところで、根拠は万人から見て明らかでなくてはならないと言われるけれども、これがかなりのところ怪しい。たとえば「電子が存在する根拠」など理解できる人がどれだけいるだろう。そうした根拠を根拠として実感するためには、教育を受ける必要があり、それはその教育が含んでいる認識枠組みに参入するということである。むかし話をした大学の先生が「ある作法に則った認識論と操作の文化を皆が共有することで、高度で大規模な共同作業が可能になる。こういう方法で、世界を大きく変えてきたのが西欧の方法論といえる*1」と書いていた。いわばそこで意図されているように狂うことによって、真理が真理として見えるようになるのだ。学問とは役に立つ狂気であると言いたい。もちろん、何が役に立つかということもそうした認識枠組みと相補的な関係にあるので、ここには堂々巡りがある。僕らは螺旋を描きながらどこかあっちの方向へと邁進している。

 「目に見える」ことへの人々の不思議な信頼。目の前のりんごは目に見えるので「在る」、電子は目に見えないので本当に存在するのかよくわからない。撮影することに成功しているので原子は在るっぽい。など。実際の科学者たちはその辺のことをあまり気にしていないようで流石だなと思うけれど。僕の立場はおそらく道具主義ということになると思うのだけれど、一つ付け加えるならば、りんごの存在も道具であると主張する道具主義である。マクロの描像をミクロに持ち込むことで「存在」の問題が発生するのであれば、逆にミクロの描像をマクロに持ち込んだって良いのではないか、と僕は思う。電子というモデルを仮定することによって様々な現象がうまく説明できるということと、りんごという概念を導入することによって昨日の太郎くんの行動(彼はりんごを買いにスーパーへ行った)が簡潔に説明できるということのどこが違うのか。僕らは世界をそのまま受容するのではなく、世界に境界つくりだし、いま認識しているものがその境界線のどちら側に属するかということのみを問題にすることによって、世界から与えられる膨大な情報を圧縮している。真偽、存在非存在、論理など、人間の扱うものの多くが二値的であることの源流は、僕らが閾値を設定する存在であることによる、というのは僕の妄想である。『論考』の網の目の比喩。

 自分にとっての世界の見え方を書く以上、それは(他者にとっては)根拠を欠いたものにならざるをえない。だが根拠というものもまた各々にとっての世界の見え方に依存している、ということを僕はなんらかの意味で確信している。そういう意味でこの文章は言い訳でありつつ自戒である。僕は僕が自分一人の世界に自閉しているということをつねに理解していなければならない。僕にとっての正しさが、ほんとうの意味で他者にとっては正しくないことがありうるということ。そのことをつねに心に留めておく必要がある。

 僕が書くものはどれも出来損ないの詩なのです。

 昨日からやたらと饒舌になっている。よくない兆候。自走する形式。セルフモニタが失調しているような。