Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

迷路を解くロボットの話

 迷路を解くロボットの話。そのロボットは、与えられた命令に従って、スタートからはじめゴールを目指す。初期状態ではロボットはなにも知らないから、適当な方向に動いてみたり、じっと佇んでみたり、壁にぶつかってみたりをしながら、やたらめったらに試行錯誤を繰り返して、あるときようやくゴールに辿り着く。ロボットは報酬を与えられ、それにしたがって今までの行動に点数を与える。一応はゴールまで辿り着いたのだから、これまでの動きはそんなに悪いものではなかった、と。そしたら彼はスタート地点へと戻されて、またゴールを目指して行動を開始する。一ゲームごとに迷路は変わるから、一度上手く行った戦略が二度通用するとは限らない。いつまでたってもゴールにたどりつかずタイムオーバーになってしまったような場合には、それまでの行動に低い点数を与え、いつもより短時間でたどり着いたような場合には、より高い点数を与える、という具合に、行動評価関数を作り変えてゆく。そうしているうちに、ロボットには見るべきところがわかってくるようになる。このような状況ではこのように行動するのが良いという具合に、状況を区別し、適切な行動を取れるようになってくる。彼の行う状況判断は、ときに人間のそれとは異なるかもしれない。人間にはまったく同じに見える状況が彼にとっては全然別のものであったり、逆に人間には別物に見える状況を彼は同じものとして扱ったりする。それはより効率よく迷路を解くための存在分節であり、世界認識だ。その分岐路において彼に右に曲がることを選択させた〈それ〉が彼にとっての存在者であり、それは人間にとってねこやリンゴがそうであるように、彼にとっての紛うことなき現実の対象なのである。そして彼について言えることは、われわれについても言えるだろうと僕は思う。われわれはちょっと複雑なだけの迷路解きロボットなのであって、われわれの認識する存在者や本質といったものは、われわれがより効率よく迷路をとくにあたって見出したある種の手がかりにすぎないのである。