Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0608

 昨夜は抜き打ちテストのパラドックスに関する本質的な説明を見つけた気がして衝動的に文章を書いてしまったけれども、落ち着いて考えてみるとまったくそんなことはなかった。自分の衝動性については十分に自覚しているつもりだけど、そんな自覚も些細なきっかけで何処かへ吹き飛んでしまうからこそ僕は衝動的なのだ。慢性的に睡眠が不足している状況ではとくに危うくなりがちな気がする。注意しなくてはね。

 教師が「明日抜き打ちテストを行う」と宣言した場合について考える。この発言の解釈には二通りがあると思う。1.明日テストが行われるならばそれは抜き打ち(予測不可能)であり、かつそれが予測不可能であるかぎり明日はテストを行う。2.教師は「丸い三角が存在する」というようなナンセンスな命題を口にしている。2の場合は、いわば教師はなにも言っていないわけであり、問題ではない。ので、1の場合を検討する。1の意味で宣言を解釈すると、教師の宣言が正しいものであるならば、明日のテストは抜き打ちではありえないがゆえにテストは行われない、ということになる。さてここで生徒は考える。私はいま明日テストが行われないことを確信している。ゆえに明日テストが実施された場合、抜き打ちテストが成立してしまう。ということは明日テストがあるに違いない。という風に予測できているということは明日テストはない、以下堂々巡り。したがって生徒はこう結論する。教師の宣言のみからでは、明日テストがあるかどうかを決定できない。するとまた問題が生じる。テストの有無を決定できないということは、明日はテストがあることを意味するからだ。ということは、となって以下略。まとめると、明日テストがあるまたはないと結論付けると自己言及のパラドクスが生じる。だからといってテストの有無は決定できないとすると、テストは行われることになり、また自己言及のパラドクスに陥る。以降無限に上昇してゆく。ゆえに(無限の果てにおいて)抜き打ちテストは成立する(???)。テストの起こりうる範囲が一週間であっても状況は同じである。このように生徒が自分の確信に対する反省能力をもち、それを推論に組み込むことができる場合、このパラドックスはちょっと複雑な自己言及のパラドクスとして定式化でき(る気がする)、そのとき元のパラドックスにあったある種の奇妙さは失われている(と少なくとも僕は感じる)。そして僕は生徒がそのように考えてならない理由を思いつけない。というのも、「生徒がテスト日を知っている」ことをテストが行われない根拠として用いた時点で、すでに高階の論理に足を踏み入れてしまっていると思うから。けっきょく、生徒が抜き打ちテストは不可能であると確信した時点で思考を止めていること、そしてそれがぱっと見て不自然ではないこと、そこにこのパラドックスの「不思議さ」の源泉があるのではないかというのが現在の僕の理解である。いわば生徒がハマるはずだった堂々巡りを、われわれが代わりに引き受けることになってしまったのだ。

 例えるならば「この推論は間違っている」という結論を導くような自己言及的な推論が抜き打ちテストのパラドックスの正体なのではなかろうか。

 後期のウィトゲンシュタインに読ませたら怒られそうなことを書いています。

 アドラー心理学についてちょっと読んでいて思ったこと。結局のところこれは、個人の内面的な事象はすべてその人の目的や欲望を反映したものとして「解釈できる」ことを利用して、患者を「煽っている」だけなのではないか。

(追記)やはり上のパラドクスの解釈はどこかおかしい気がする。誰か僕の代わりに考えてください。

(追追記)案の定間違いがあったので少し書き直した。このパラドックスはたぶん「この文の真偽が決定不可能であるときに限り、この文は真である」という文章に等しい。