Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0709

 世界に意味を見出すことは、世界にその使用法を見出すことでもある。だから世界の解像度を高めることは、願いと意志の精度を高めることでもある。

 「われわれの語は「意味」という表現をもっている。ただそれだけのことがわれわれを誤らせてしまう。われわれは規則が規則でないものに対して責任があると考えてしまう。しかし、規則はただ規則に対してしか責任がない」(ウィトゲンシュタイン

 僕らは意味や理由という言葉をあたかもそれらが現実に対する本質的な接近であるかのように捉えてしまう傾向性をもっている。真理に近い概念と真理から遠い概念があるかのように考えてしまう。もちろんそのように考えることが直ちに問題になるわけではない。哲学するような場合を除いては。

 僕らは現実世界と言語世界とを別の層のものとして考えがちだけれど、おそらくそれは正しくない。言葉や規則とモノ・対象は同じレベルの存在者だ。意味と規則が現実に対して負っている(とされる)責任は、いわば林檎が蜜柑に対して負っている責任と同じもので、それは結局のところ文法的責任である。世界に対し真に責任を負うものがあるとすればそれは文法だけだ。そしてここにおける「責任」とはもはや僕らが一般にそう呼ぶところの責任概念ではなく(というのも文法の内側から見て文法は恣意的なのだ)、世界がそれ自体に負っている責任、いわば自然法則に等しい。起こっていることが起こっている、以上。意味は蒸発し、本質の死体が転がっている。

 ブーヴレス「(略)わたしたちが「事実」と呼んでいるものを見るようわたしたちに教えたのが、まさに文法なのだから。しかし、その「事実」を文法に依存しないものとして、文法をまたずに存在するものとして見るよう教えたのも文法である」。会心の表現という感じがする。

 僕にできるのは新しい喩え話を作ることだけだ。

 先日、大学に卒論概要を提出しました。内容は全然煮詰まっていないけれど、きちんと締め切り前日に持って行ったという点では自分を評価したい。以前の自分なら締め切り二分前とかになっていたと思う。論文自体もこんな感じで進むと良い。

 自由意志なんてなくとも頑張ってゆこう。