Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0729

 ある状況においてそのルールが適用されうるかいなかを決定する必然的な規則は存在しない。たとえば法律はそれ自体で人を罰するものではなく、それを適用する仕組みがあってはじめて機能する。そして「ある状況」はつねに恣意的だ。この世界のカテゴリには「殺人」の項目はなく、ただそれを殺人とみなすわれわれからしてそれが殺人であるのにすぎない。ゆえにルールは説得と納得の俎上に成立する。ある意味で、ルールとか正しさとかいったものは社会に落ちているバールのようなものだ。それを道具として使えることを知っている人が、それを使って敵を殴ったり己を律したりするのである。もちろんバールそれ自体は誰かを殴ったりしない。

 ルールが道端に落ちているバールのようなものであることを誰もが知ってしまったとき、ルールは(今までのような意味では)ルールでなくなるだろう。というのも、そのとき人はバールで殴られることに痛みを感じなくなっているだろうから。はやくそうなればいいのにと思う。


 自覚とか反省とかいった事態について考える。結局のところ自覚もまた無自覚になされるのであって、そういう意味では自覚的な行為と無自覚の行為に本質的な違いはなく、たんに奥行きの差が少しばかりあるのみである。奥行きのある存在でありたいと思う。世界に対しよりきめ細やかに応答すること。


 風を感じたときつねに「この風は私が吹かせた」と感じる人がいるとすれば、彼は実際に風を吹かせたのだ。どちらが先かは問題ではない。というのも、行動決定と意志の自覚では、前者のほうが先に起きていることが知られているのだ。そしてこの喩え話は「風」を「思考」や「知覚」に置き換えても成立する。

 この喩え話は4年くらい前にふと思いついたものだけれど、わりと気に入っている。自分の輪郭があやふやなものであることを思い出させてくれるから。この喩え話を内向きに適用していくと、〈私〉はどんどん収縮しついには大きさのない点になる。また外側に向かって押し広げていくと、〈私〉はどんどん拡大しついには世界に一致する。独我論実在論が一致するゼロポイント。まあただの喩え話なんですが。


 あまり言葉を使わない生活をしているせいか、内面がますます視覚的になってきている。かつては言葉によって把握されていた気持ちが、いまでは風景として見えるようになっている。「意識とは自分が話すのを聞くこと」というのはデリダの言葉らしいけれども、僕の意識は「自分が描くものを見る」ことになりつつある。言葉を持たない生き物は、たぶんこんなふうに考えているのだろうと思う。

 思考というものは、抽象化してしまえば、それがそれ自身に影響されることによって進行してゆくような形をしている。言葉で考える人は、自分の言葉を聞くことが次の言葉を促すような形で考えを進めてゆくのだろうし、イメージで考える人は、自分の描いた絵を見ることがその絵に変化をもたらすような仕方で考えを進めていく。媒体になるものはおそらくなんでも良い。触覚や嗅覚で考える人もあるのかもしれない。おそらくもっともコンパクトなのは言葉なので、言葉で考えるのが今のところ飛距離を稼ぎやすいのだとは思うけれど。で、この媒体がたとえばVRなどで表現できようなったとしたら、人間の思考はどこまでいくだろうかと考えていた。言葉より抽象的で、イメージよりも具体的な思考が、どこまでも続いてゆく。より高度な自我のかたち。そんなことができるようになるかもしれない。もちろん、すでに心の固まってしまった僕には無理かもしれないけれども、新しく生まれてくる子どもたちならあるいは。とか。

 というか言語というのは本質的にヴァーチャルリアリティである。神林長平的な発想。


 「言葉を理解するのに言葉は必要ない」ということはとても重要だと思う。


 ニューラルネットはエネルギー最適化問題と同じ形だとか言われているけれど、生物が効率よく代謝するために今まで進化してきたのだと考えればこれはすごく自然なことのように思える。つまり僕らの知能はちょっとひねくれた代謝系なのであって、それは迷路を解く粘菌の素朴な延長線上にある。適当なことを書いているのでどっかからか槍が飛んで来るかもしれない。

 知能というものは究極的には楽をする能力として測るのが良いのかもしれない。じっさい周囲を見渡せば頭の良い人ほど怠け者である。


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