Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0831

 メインPCが突然故障したので修理を依頼していたのだけど、今日業者が引き取りに来た。調べたところわりと頻発している不具合らしく、購入前の調査が甘かったなと反省しつつ保証期間内に故障したのは僥倖だったなと思う。ただしばらくメインが使えないのであまり重たい計算を手元でやることができない。ちょっと困る。


 音声が空気の震えであり文字がインクの染みであることからわかるように、言葉はひとつの事実である。だから事実と言葉の記述的関係は、実際は事実と事実の対応関係であり、この対応関係を生み出すものが論理である、というのが前期ウィトゲンシュタインの哲学だった(と僕は認識している)。世界はあまねく論理的であり、事実と事実は論理的関係にあって、それゆえ言葉は世界について語りうる。例えば赤色と青色とが視野の同じ位置を占めることはないということは論理的制約であり、つまりここでは青色が赤色について〈語って〉いるのである。これと同じことが、つまり青と赤との論理的関係に類比的なことが、言葉という事実と現実という事実の間に生じており、それゆえに言語は現実に触れている、これが前期ウィトゲンシュタインの言語観だった。ところが後期に至ってウィトゲンシュタインはこの考えを捨てる。論理的関係は文法概念に回収され、すべてはゲームになった。言語はひとつの事実であるという基本線はそのままだが、事実と事実の関係は、実在論的な論理に基づくものではなく、ただ「文法的なもの」とされたのである。ここにおいて言葉は世界について語るものではなくなった。言葉と事実の関係は、事実と事実の関係と同じく、「そのように見出される」だけのものになったのである。そして事実と事実の関係が文法的であるということは、ある事実を世界から切り抜く輪郭線もまた文法的であるということを意味し、ゆえに「本質は文法の中で述べられている」という哲学探究の言葉へと繋がる。

 ところでこの「本質はゲームである」という認識は、井筒俊彦が「意識と本質」において禅のところで述べていた「文節Ⅱ」に相当すると思う。禅が無分節の境地を経て体感的に分節Ⅱに辿り着くのに対して、ある種の哲学者たちは思考でもって分節Ⅱを推定する。ちょっと面白い。

 ヘッセ「シッダールタ」を読んだのだけど、作中でこんなことが言われていた。「知識は教えることができるが、知恵は教えることができない」。知識というのは共有された特定の文法における語りであって、知恵は文法そのものの更新であると考えるとかなりしっくりくる。

 ところで言語ゲームという思想もまた特定の言語ゲーム上で語られていることに注意せねばならない。だから無分別智も、それが主体の選択に影響を及ぼす以上は〈真理〉などではなくひとつの「生きる知恵」にすぎないのである。「自分は誰かの役に立っている」という認識が励みになる人がいるのと同じ意味で、「一切は空である」という認識が助けになる人もいるというただそれだけのことなのだ。煩悩という壁を打ち砕くつるはしが無分別であって、これは例えではない。煩悩も言葉もひとつの事実であるという意味では。

 「真理は言葉で記述できる」ということは「真理は眼で見ることができる」というのと同じくらい馬鹿げている。


 ふとニューラルネットの解説記事でも書いてみようかなと思って、すぐに思い直した。MSCOCOからの逃避行動であることを悟ったからである。もう時間も残り少ないので、やれることをやるほかない。がんばる。


 参考文献として水本正晴「ウィトゲンシュタインVS.チューリング」を買った。ウィト氏の数学観を大きく扱った日本語の本のうちわりあい軽く読めるものはこれしかないっぽい。主題が認知とかAIとかの話なので人工知能の棚に置いてあったのだけど、周辺の本を見てなぜだかちょっとつらい気分になった。