Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0329

 ふと思ったこと。僕は概念を分析することにあまり価値を見出していない。たとえば愛と友情の違いとか、真実と美の類似性とか、そういう主題について考えることに意味を感じないのだ。というのもわれわれはそれらの概念をふわっと扱っているのであって、そのふわっとした使用によってわれわれの言語共同体がまわっているのであれば、そのふわっとした使用こそがそれらの概念の意味だということになり、それを分析して得られた結果は、ある意味で余計なものということになるだろう。ここにおいて概念の分析はむしろ創造的行為ということになる。僕には創造性がない。

 自分には機能しかないのだと最近よく感じる。この傾向はこれからさらに強まってゆくのだろう。それならばせめて高性能な機械でありたい、美しい武器でありたい、と思う。やっていくぞ。

 本質と必然を否定し、観念にはただ生活における有用性のみがある、という考え方を多くの人が拒むのは、それだと世界が恣意的な妄想の世界になってしまうよう思われるからかもしれない、とふと考えた。これは観念論に対する批判と同根だろう。だがそうではないのだ。というのもその恣意性はわれわれの自由によるものではないからだ。たしかに世界の分節化・構造化の仕方は恣意的だが、それは言うならば世界それ自体の意志に従っているのであって、われわれの自由にはならない。われわれの意志や自由はあくまで言語ゲームの内側にあり、言語ゲームの内側においてそれらはたしかに自由であり意志なのだけれども、その力は、言語ゲームを支える自然・物自体の従う秩序、には及ばない。この世界には〈本質〉も〈因果〉も〈時空〉もないが、(ある意味で偶然的に)われわれはそうした観念によって世界を構造化しており、その世界観の選択はわれわれの意志によるものではなかった。ここにきわめて微妙な問題がある、と思う。物自体の世界(叡知界だっけ?)における偶然性(これも〈偶然性〉ではない)は、われわれにとってはある意味で「必然」なのだ。このことは、世界の非決定性がそのまま自由意志を肯定するわけではない、という話とも関連している。サイコロの出目が非決定的であるとして、サイコロに自由はあるのか。この話が明らかにするのは結局のところ自由は観念にすぎないということだが、われわれにとってはまさにそれが自由なのであり、その意味での自由に対して、世界の(偶然的な)選択は必然性として映るのである。なんだかよくわからなくなってきた。言葉遊びはむつかしい。

 結局のところ、後期ウィトゲンシュタインもまた超越論哲学なのだ、ということを思う。形而上学をやめるのは本当にむつかしい。とくにやめる必要もないのかもしれない。数学だって無限を扱っているのだし。