Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0607

 意味不明に疲れています。重力が2gくらいある気がする。呼吸がとても浅くなっているのに気付いて意識的に深く吸うようしだしたらちょっとマシになったような。思い込みかも。

 仕事は相変わらず暇なので今日はstan職人ごっこ。確率的プログラミングはよくわからない。ニューラルネットのほうがよほど素直なものに思える。解釈可能性ってわりと高コストよね。

 言葉を発しながら別のことを考えるのと同じように、考えごとをしながら考えている自分を眺める、ということがわりと出来るようになってしばらく経つけれど、それでわかったのは、(他のあらゆることがそうであるように)自分の思考はただの確率過程にすぎないということである。知覚と記憶が混じり合いながら、ときに秩序だって、ときに無作為に思考の樹形図を枝刈りしてゆく。いくら目を凝らしたところで自分に固有の意志なんてものは見えてこない。ヒトの形に凝集されたランダムネスが無数の選択肢の中に染み渡っている。僕にできるのは、見ること、聞くこと、感じること、ただそれだけで、そう思うと人間というのはいかにも窮屈なものだけど、その身じろぎひとつできない牢獄の中で与えられる感覚の中には、自由とか開放感とかいったものも含まれているからとくに問題は生じない。

 考えることは川を作ることに似ていると思う。湧き出した水は地形に沿って流れを作る。水はただ斜面を下ることしかしないから、川の流れを変えるには地形を弄らなくてはならない。しかもその地形がどうなっているかは、実際に水を流してみるまでわからないことが多い。だから目的の場所まで川を繋ぐにはたくさんの試行錯誤が要る。思いつけないことを直接思いつくのは不可能だ。ただし無駄な試行錯誤を減らす方法はあるはずで、最近いろいろ考えている。